お梅という女(8) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

さて、もう一度事件を振り返ってみましょう。文久三年(1863)九月十六日、壬生浪士組は島原の角屋で芸妓を総揚げしての大宴会を開いていましたが、芹沢鴨、平山五郎、平間重助のいわゆる「芹沢派」と土方歳三が先に席を立ちました。

 

一方、壬生浪士組の屯所のひとつ八木邸では、主人の源之丞は出かけたままなぜか帰って来ず、妻のまさと息子の為三郎、勇之助の兄弟の三人が在宅していました。また日暮れ頃になると芹沢の愛妾(とされる)お梅や島原桔梗屋の芸妓吉栄、同じく輪違屋の糸里などが八木邸を訪れ、芹沢らの帰りを待っていました。

 

屯所の八木邸に戻った芹沢、平山、平間、土方の四人は、女性たちを交えて再び酒宴となりましたが、やがて宴が終わって土方はひとり帰って行き、泥酔した芹沢たちはそれぞれ寝床に就きました。芹沢とお梅、平山と吉栄は玄関奥の十畳間に、間に屏風を立ててそれぞれ布団を敷き、平間と糸里は玄関左手の四畳半の部屋に寝ました。

 

一方、為三郎と勇之助は元々寝るつもりだった玄関左手の部屋に糸里がいたので、その北側の突き当りの六畳間に布団を敷いてもらい、まさはその中間の階段のある部屋に寝ました。

 

 

※.「八木為三郎老人壬生ばなし」「浪士文久報国記事」を元に作成した当日夜の図。(前回の図では平間たちが北枕になっていたので書き直しました)

 

 

「八木為三郎老人壬生ばなし」~『新選組遺聞』(子母澤寛)より

 

そうしている中に、十二時頃に、誰か玄関の障子を開けて静かに入って来るものがあるのです。母はもう床に入っていましたが、それは私達の寝ている部屋の南で、つまり玄関の左手の部屋の南で、つまり玄関の左手の室。

 

(中略)

 

母はまだ寝入っていなかったので

「今時分、誰だろう」

ひょっとしたら父が戻ったのかしらと思って、気をつけると、入って来たのはどうも体つきの様子で土方歳三のようなのです。その土方が、足音を忍ばせて、芹沢の寝ている室の唐紙(この室だけはさすがに締め切っている)を細目に開けて、中を覗いている。

 

よほど「土方さんですか」と声をかけてみようかと思ったが、どうも怪しいナと思っている中に、またそっと出て行ってしまった。

 

 

それから二十分ほどすると、今度は四、五人ほどがドカドカと激しい勢いで飛び込んで来ると、一目散に芹沢らの寝ている部屋に入り込み、寝ていた平山、芹沢そしてお梅を殺害してしまいました。吉栄だけはたまたま便所に行っていたので助かったといいます。

 

芹沢は深手を負いながら、障子を蹴破って隣の為三郎たちが寝ている部屋に逃げ込もうとしましたが、机に足を取られて布団の上に転倒したところをズタズタに斬られて殺されてしまいました。あとで調べたところでは芹沢は大小無数の傷を負っていましたが、特に肩から首にかけて大きな傷がばっくりと開いて部屋は血の海になっていたといいます。

 

平山は首が胴から離れて即死しており、お梅も血だらけになって死んでいましたが、首の皮一枚残して斬られていたという話です。平間は「どこに行った!どこに行った!」と大声で叫びながら走り回っていましたが、糸里ともどもいつの間にか姿を消してしまっていました。

 

 

・・・というのが、八木為三郎が晩年に語った事件当夜の顛末なのですが、この話、いろいろとおかしい。上の図と照らし合わせただけでもおかしいところがいくつもあるのですが、具体的にどのあたりがおかしいのかを次回以降検証してみたいと思います。