お梅という女(10) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

主人の源之丞はなぜか夜になっても帰って来ず、長男秀二郎らの子供たちはどこにいたのかわからず、芹沢鴨ら男女が同衾している隣の部屋に子供を寝かす・・・。「八木為三郎老人壬生ばなし」を読んだかぎりでは、八木家の人々に関して、「どうして?」と感じざるを得ないような点がいくつもあります。

 

先日八木邸を訪問しましたが、その際にガイドの方にお話をうかがいました。以前ブログにも書きましたが、その時に案内していただいたガイドさんというのが、幸運にもご当主の八木喜久男様でした。ただし、ご自身で名乗られたわけではありません。しかし、八木家のご当主であるとおっしゃっていたし、お顔からしても間違いないのですが、一応念の為、以後はあくまで「ガイドさん」ということにしておきます。

 

その「ガイドさん」が、これらの八木家に関する疑問点をすべて解消出来るようなことを言われました。いわく

 

 

八木家の者は、浪士に母屋を明け渡した時に、みんな別宅に引き移りました。

 

 

ただし、『八木家と新選組』(八木喜久男著)には為三郎の話に準じたことが書いてあるので、その点では話の信憑性に大きめなクエスチョンマークをつけなければならないかも知れませんが、しかし、事実関係だけを考えれば、これは非常に納得出来る話です。

 

大河ドラマ『新選組!』では隊士たちと八木家の家族が同居することによって生まれるドラマの面白さがありましたが、現実的に考えれば、八木邸の広さも考えると、浪士たちと家族が同居するには無理があるように思えます。ましてや、どこの馬の骨とも知れない(笑)関東の浪士たちです。女子供を同居させるぐらいなら別宅に引き移った方がよほど安全です。

 

為三郎の「壬生ばなし」では、事件後しばらく、一家は近所にあった永島という親類の家に行ったことになっていますが、「ガイドさん」の話では別宅というのもすぐ近所にあったそうなので、あるいは浪士組に母屋を明け渡した時点で、永島という親類の家を借りて移り住んだというのが真実だったのではないかと思われます。だから、そもそも源之丞は八木邸には帰って来る必要はなかったし、秀二郎らの子供が八木邸にいないのも理の当然です。

 

では、なぜまさは八木邸にいたのかというと、まさはこの日、たまたま用事があって母屋に来ていたのが、更に用事が重なってしまったので泊まることにしたのだそうです。これも為三郎の話にはありませんが、非常に納得のいく話です。

 

浪士たちがみんな島原に出払って、久しぶりに母屋が空いたのです。まさにしてみれば、浪士たちが留守にしている間に、久しぶりに母屋を見ておきたかっただろうし、住み込みの下男や女中たちに命じて掃除、片付けなど、この機会にいろいろと用事を済ませておきたかったのでしょう。

 

ところが、夕暮れ時にお梅たちがやって来た。となれば、芹沢鴨たちが帰って来たのち、母屋で再び酒宴となる。そうなると、いろいろやっておかねばなりません。酒の調達、食事の準備、それらは言伝だけして女中に任せることも出来たでしょうが、まさは世話好きだったのでしょう。あるいはまさの親切は、壬生浪士組たち、特に芹沢鴨個人がそれだけ信頼され慕われていたことの証だといえるかも知れません。

 

更にもうひとつ。実は左奥の六畳間に寝ていたのは、為三郎ではなくまさだったというのです。まさが寝ていた布団の上に机につまづいた芹沢が倒れてきたのだそうです。では為三郎はどこにいたのかは残念ながら聞きそびれてしまいましたが。

 

そして、だとすれば為三郎の話は、本当は母のまさから聞いた話であって、為三郎自身は実はその場にいなかったのではないかと思われます。あるいは為三郎と勇之助は母について来て一緒に母屋に来ていたのかも知れませんが、おそらくは二階の部屋など、別の場所で寝ていたのでしょう。だから事件が終わるまで気づかずに寝入っていて、まさに「いくら子供でも余りひどいものだ」などと怒られたのでしょう。

 

為三郎は昭和元年頃に大阪毎日新聞社に取材を受け、その話の内容は「隣の部屋から見た新撰組の乱闘」と題して同紙に掲載されました。思うのですが、本当は母から聞いた話として語ったものを、取材した記者に「ご自身が見たことにした方が読者にウケるので、そのように書き換えさせてもらえないか」と持ちかけられたら、為三郎に断る理由はなかったはずです。その後、更に子母澤寛の取材を受け、物書きである子母澤によって、話に更なる色づけがなされたというのが、「壬生ばなし」の本当のところではなかったでしょうか。