ぜんざい屋事件(十) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

さて、ぜんざい屋事件にはもうひとつの謎があります。それは斬死した大利鼎吉が、天誅組首領で元治元年(1864)十一月十五日に暗殺された中山忠光卿より拝領の半太刀を手に戦ったことです。

 

『維新風雲回顧録』(田中光顕)

奥の座敷にいたのは大利鼎吉。

どやどやと壮士乱入して来た物音を聞きつけた。

「くそっ」

彼は、中山侍従が佩用した半太刀を頂いて帯びていたが、それを執って、すっくと立ち上がった。

 

『維新土佐勤王史』

折しも那須、橋本、濱田の三人は外出中にてありしよし、大利鼎吉ただ一人、中山侍従が帯びしという半太刀を執って奮闘し、衆寡敵せず乱刃の下に斃る。

 

しかし、以前何度か書いたように、大利鼎吉の脱藩は文久三年十月三日のことであり、その時には既に天誅組は壊滅していました。大利は少なくとも天誅組に加わることは不可能だったわけで、刀の拝領はそれ以後のことということになります。

 

では長州に潜伏していた際に拝領したのでしょうか。しかし、そんな話は残っていません。また、浪士の中で決して目立った存在ではなかった大利に、中山忠光卿に褒美を授かるほどの功績があったとは思えません。

 

これが小説ならば、なにかの偶然で潜伏中の二人が出会い、そこから特別な信頼関係が生まれて、自分が暗殺されるかも知れないと悟った忠光卿が、形見の半太刀を大利鼎吉に託して長州を脱出させたとか、あるいは長州に居づらくなった大利が、忠光卿の寝所に忍び込んで半太刀を盗んで、その因果で死んだのだとかいう話になりそうですが、事実はもっと単純です。

 

実はこの半太刀、中山忠光卿より拝領の刀であったことは間違いないのですが、授かった相手は実は大利鼎吉ではありません。その人物というのは、当時作州(現・岡山県の東北部)あたりを遊説して回っていた、同志の島浪間なのでした。島は天誅組に加わっており、天誅組壊滅後は中山忠光卿に付き従い、共に長州まで落ち延びました。その労をねぎらうために、忠光卿は腰に差していた半太刀を手づから島浪間に与えたのです。

 

『勤王殉国事蹟』六十八

島秦義親

通称並馬、のち変姓長宗我部四郎

(中略)

一、文久三年癸卯三月十五日、山内兵之助公子の供をもって上京。同年三条殿付申し付けられ、同年八月中山(忠光)侍従公に随従し、大和に下り、五十騎に将たり。勢州の陣を打ち破り大いに接戦す。その後、長州へ下向の時、道筋において大いに尽力し、賞として太刀を給わる。

 

では、島は旅立つ際にどうしてせっかく拝領した半太刀を持って行かなかったのでしょう。いや、そんな疑問を呈すると、当時の人たちに笑われてしまうかも知れません。そもそも半太刀というのは正しくは半太刀拵(はんだちこしらえ)といって、直垂(ひたたれ)などの正装を身に纏う際に用いるもので、そのために昔の太刀風に豪華な金具などの装飾が施されていました。浪士風情が腰に差して歩いていたら、一発で怪しまれてしまいます。持ち歩くことなど出来るわけがなく、ぜんざい屋に置いて行くしかなかったのです。

 

そして、攘夷の魁となった中山忠光卿の佩刀は、彼ら過激浪士たちにとっては活動の精神的支柱、文字通りの宝刀となったはずです。それだけにぜんざい屋には首謀者である土佐浪士の誰か一人は残っていなければならなかったのでしょう。でなければ、また谷川辰吉のように逃げ出す者が出て、半太刀を持ち去らないともかぎりません。だから大利鼎吉は事件の夜、ぜんざい屋に残っていたのでしょう。

 

しかし、宝刀である半太刀を手にして戦うということは、ある意味、非常に不遜な行為だと言えますが、気心の知れない新参浪士たちを鼓舞するためには、そうせざるを得なかったのかも知れません。あるいは、今日ここが死に場所と覚悟を決めたからこそ、宝刀である半太刀を手に取るという禁を敢えて犯したのかも知れません。

 

そして、この半太刀について、みなさんはお気づきでしょうか。谷万太郎は居候先の岩田文硯に気に入られ、その娘婿となりましたが、その岩田文硯は元中山大納言家の侍医でした。そして、幕末期に「中山大納言」と名乗ることが出来る人物というのは、この世にたった一人しかいません。

 

それは他でもない、中山忠光卿の父・権大納言中山忠能その人です。つまり、ぜんざい屋事件には、父・中山忠能卿から息子中山忠光卿へ授けられたであろう半太刀を、運命のめぐり合わせからその手に取った大利鼎吉が、中山忠能卿の元侍医の娘婿・谷万太郎に斬られるという、一振りの刀をめぐる奇縁が隠されていたのでした。

 

そしてこの半太刀は、大利鼎吉の遺体ともども、その後の行方がわからなくなっていて、現在まで行方不明となっています。現在はともかく、明治時代ならば国宝級の扱いを受けたかも知れない半太刀は、いったいどこに消えてしまったのでしょう。

 

大利鼎吉を斬った谷三十郎・万太郎の兄弟なら、大利の腰に差していた拵がただものではないことは一見してわかったはずです。素直に役所もしくは京の新選組屯所に差し出したでしょうか。あるいは魔が差して横領してしまったのでしょうか。

 

ぜんざい屋事件から一年後の慶応二年(1866)四月一日、半太刀の行方を知っていたかも知れない谷三十郎は、祇園社(現・八坂神社)の石段下で謎の死を遂げることになるのですが、あるいはこれも何かの因果なのかも知れません。