ぜんざい屋事件(九) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

事件後、谷万太郎は弟子の正木直太郎と連名で、京都にいる近藤勇と土方歳三宛に事件の報告書を書いて送っています。

 

書翰をもって申し上げ奉り候。ちょっと申し上げ候召し捕りもの、何気なく四人にて入り込み候ところ、存(おもい)のほか手剛(てごわ)なる者にて、直太郎右の腕四寸ほど手を負い、三十郎は足を少々、私は胸元を当てられ、しかし一人は切り伏せ候えども、余人は逃げ去り、誠に残念至極、お察し下さるべく候。

 

しかし書類手に入れ、取りあえず目当り候ものには長州への建白これあり、その他色々これあるべしと相察し申し候。

 

もっとも会津町田氏立ち会いにて、後刻より取り調べ候つもりに御座候。何分容易ならざる者にて、他によほどこれありやと察せられ候。

 

なお追々申し上げ奉り候えども、誠に存外の手強者、これまでにこれなき召し捕り者にて、大いに流汗仕り候。

 

察するところ長藩よほど入り込み候様、相察せられ申し候。かつ会津町田氏も文通いたし候旨も御座候。高野十郎にも刀槍にて大いに働き申すべく候。未だながら皆々少々は手を負い逃げ去り候と相察し申し候。荒々かくの如く御座候。

 

時を追って申し上げ奉り候。

十日五つ時発

      谷万太郎

      正木直太郎


近藤先生

土方歳三様

 ~「谷万太郎書翰」(「東区史」より。『新選組銘々伝』より引用)

 

 

この報告書は、よく新選組関連の書物で「襲撃がうまく行かなかったことの言い訳」だと評されているのですが、果たして本当にそうなのでしょうか。

 

この文章の中に、とても気になる表現があります。それは冒頭の「何気なく四人にて入り込み候ところ」の部分です。

 

「召し捕りもの」とは、この場合「(今回の)事件」という意味だと思いますが、その説明の冒頭に「何気なく四人で(ぜんざい屋に)入ってみたら、思いのほか強敵だったので、負傷してしまいました」と言っているわけです。しかも谷川辰吉よりの情報提供があって、ぜんざい屋に浪士が集まっていることを事前に知っていながら、ぜんざい屋に「踏み込んだ」わけでも、「討ち入り」したわけでも、「斬り込み」したわけでもなく、「何気なく入った」というのですから、なんとも情けない話ですが、これでは言い訳どころか、自分たちが油断していたことを自ら白状しているようなものではありませんか。

 

谷万太郎は、なぜこんな自分たちにとってマイナスになるようなことをわざわざ書いたのでしょう。なんとも不思議な話ではありますが、前回述べたような万太郎の人柄を合わせて考えてみたところ、ひとつの可能性が浮かんできました。

 

それはつまり、万太郎たちはぜんざい屋を襲撃するつもりがなかったということです。大坂城を焼き討ちしようと計画している不逞浪士たちが集まっているのにナゼなのかというと、万太郎は、浪士たちを説得して解散させようとしたのではないでしょうか。

 

そもそもが無謀すぎる計画です。「君たち、たったこれだけの人数でそんな大それたこと出来るわけないだろう。馬鹿な考えは捨てなさい。本来ならば、今ここで捕らえて奉行所に差し出さねばならないところだが、君たちも志を立てて国を出て来た有志、捕らえて首を刎ねるには余りにも惜しい。今ならまだなかったことにしてやれるから、国に帰って出直して来なさい」。そう説得するために敢えて新選組隊士を連れていかなかった、つまりは新選組ではなく、谷万太郎・三十郎兄弟の個人的な行動として行ったのではなかったでしょうか。

 

谷川辰吉の話から、新参浪士たちの本音がある程度わかっていたから、十分説得出来ると考えたのではなかったでしょうか。そして、彼らと考え方の近い阿部十郎を連れて行ったのは説得に当たらせるためだったろうし、その一方で裏切り者である谷川辰吉は、彼らの感情を逆なでする可能性があったから敢えて連れて行かなかった。

 

そして、濱田辰弥、大橋慎三、那須盛馬の三人はたまたま留守にしていたのではなく、あらかじめ見張りを付けておいて、首謀者である彼らが出かけるのを見計らってぜんざい屋に踏み込んだのではなかったでしょうか。

 

しかし、いくら場所がぜんざい屋とはいえ、やっぱりそこまで甘くはなかったのです。首謀者である土佐浪士の一人大利鼎吉が残っていました。彼に「こいつらは幕府の犬だ。斬れ!」とけしかけられて、新参浪士たちも万太郎らに襲いかかった。突然襲いかかってきたので万太郎、三十郎、正木直太郎の三人は不覚をとってしまいましたが、いざ斬り合いとなったら、さすがに谷兄弟は強い。浪士たちはたちまち斬り立てられ、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまったのでしょう。ぜんざい屋の主人・本多大内蔵もそうだったでしょうし、あるいは池大六も釣られて逃げてしまったのかも知れません。

 

阿部十郎はのちに、剣術の師匠である谷兄弟のことを「至って未熟」だとこき下ろしていますが、これは、本当は剣術の腕前のことを言っているのではなく、その人柄の甘さを言っているように思います。そして、そう考えるとこの言葉は単なる悪口ではなく、「(善人ではあるが)困った人たちだ」という、ある種の愛着や敬意を感じさせる表現だとも思えます。

 

谷兄弟、上士育ちの世間知らずなところ、悪く言えばのん気なところを持ち合わせていたから、幕末という血なまぐさい時代には不向きな人たちだったのかも知れませんし、そういうところが、見ようによっては「いかにも上士出身らしい高尚な人格」に思えて、近藤勇をして末弟周平を養子にしたいと思わせる要因だったのかも知れません。逆に言えば兄弟からしたら、もともと上士出身の彼らが、新選組という浪士集団の中で出世するとかしないとかいうことは、本当はどうでも良かったんじゃないかと思えますし、そう考えると現在自分たちに与えられてしまったイメージとのギャップに、きっと草葉の陰で苦笑いしていることでしょう。

 

つまり、ぜんざい屋事件とは大坂城焼き討ちを謀る不逞浪士たちの籠もるぜんざい屋を谷万太郎らが襲撃した事件ではなく、彼らを説得しようとした谷万太郎らを不逞浪士たちが襲撃した事件。そう考えた方が納得がいくように思いますが、いかがでしょう。

 

 

 

ちなみに、谷万太郎と正木直太郎ふたりだけの署名であることをちょっと不思議に思われるかも知れませんが、おそらく谷三十郎は、復隊を望んでいた阿部(高野)十郎を連れて京に戻り、近藤局長に直接報告したので二人は書状に署名する必要がなかったものと思われます。

 

また、「高野十郎にも刀槍にて大いに働き申すべく候」というのは、この事件で大いに働きましたということではなく、「(この事件で活躍してくれたので、新選組に復帰したら)大いに働いてくれるでしょう」という意味なのでしょう。

 

つまり、この書状はぜんざい屋事件の報告書であると同時に、阿部十郎の新選組復帰を認めてくれるよう、谷万太郎から近藤局長・土方副長へ宛てての“推薦状”の意味合いも兼ねていたと解釈出来ます。

 

それは同時に、万太郎と京都の新選組本部との間に一定の立場的距離感があったことを示唆しているとも思えるのですが、いかがでしょう。

 

 

 

 

※.谷三十郎・万太郎・昌武(周平)の三兄弟が眠る本傳寺(大阪市北区兎我野町)