ぜんざい屋事件(十一) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

ぜんざい屋事件に関連して、こういう話もあります。

 

『壬生浪士始末記』(西村兼文)

ここに谷川辰吉と云える隊士あり。元備中国倉敷在の産にして、時勢に習い剣柔を好み、有志士に交際し、本国に於いて嫌疑を蒙り、国を脱して大坂に来たり。所々に潜伏中、土州人片岡源馬(この時、仮名那須盛馬)、濱田辰弥(のち田中顕助)、大村刀三郎(のち浅井道之助)、大橋(慎三)、多里偵佶(=大利鼎吉)、田村道太郎など秘かに謀るところありて大坂に出、道頓堀鳥毛屋某方に滞在す。

 

谷川はその頃、近藤勇に交わり深き備中人谷万太郎、同三十郎兄弟松屋町撃剣場に、同国の因みをもって来たり、遂に土藩の謀議を内通し、志操を変じ、谷兄弟と共に新選組に入隊し、慶応元乙巳年二月、近藤勇、三南三郎(=山南敬助)、土方歳三以下、二手に別れ、これを逮捕せんとその寓居鳥毛屋へ、不意を計り押し寄せたり。

 

土藩片岡、濱田、大村、大橋以下、それと見るより心得たりと六連砲を発し煙中より討って出、闘戦すこぶる激し。片岡奮戦、新選組隊士有名の剣客谷三十郎を一当に突き倒し、左手に傷つく。

 

この時、京都檀王法林寺の僧某もその場に居合わしたるが、剛力にして太刀を振りて無闇に新選組を切りまくりたれば、隊士少しく辟易す。

 

そもそもぜんざい屋事件自体があまり取り上げられることがないせいか、この『壬生浪士始末記』の記述も書籍で取り上げられたことがあったかどうか。少なくとも僕は記憶にありません。

 

実際のところ、場所が鳥毛屋になっていたり、濱田辰弥・那須盛馬らと大利鼎吉が一緒に戦っているなど、事実誤認と思われる箇所も少なからずあり、眉唾もののように思える内容なのですが、ただ、何しろ大坂城焼き討ちなどという暴挙であり、それとうっかり書き忘れていましたが、当時、大坂城には長州征伐を見据えて将軍徳川家茂が在城していました。

 

新選組は、もとをたどれば将軍家茂を警護するために上京した浪士組であり、その家茂公が在城している大坂城への攻撃計画は、近藤にすれば絶対に許されない行為だったでしょうし、ぜんざい屋事件では結局、大利鼎吉以外の浪士はすべて逃げてしまっており、なおかつ谷川辰吉という情報提供者がいて、鳥毛屋が浪士のアジトであるという情報を入手し得たことを考えれば、局長近藤勇自らが隊士を引き連れ、大坂に乗り込むことは、むしろ十分にあり得ることだと思われます。

 

では、実際に戦闘が行われ、新選組は撃退されてしまったのでしょうか。それに関しては、当の濱田辰弥こと田中光顕が以下のように語っています。

 

「しばらく時機を待て」

そういうので、翌々十日、大橋がまず京都に逃れた。

那須と私は十津川郷士千葉貞之助の注意に基づき、中西弥作郎と中西靱負との嚮導によって、大和十津川に逃れることにした。

 ~『維新風雲回顧録』

 

これを読むかぎり、彼らはぜんざい屋事件の数日後には大坂から姿を消したものと思われ、新選組が鳥毛屋に踏み込んだ時には、既にもぬけの殻だったのではないかと思われます。つまりは、近藤勇が直々に大坂に下り、鳥毛屋に踏み込んだのはおそらく事実だったが、田中光顕らは既に逃げたあとで、空振りに終わってしまった。なので、どちら側の記録にもこの「鳥毛屋襲撃事件」は残ることはなかったというのが本当のところではないでしょうか。