伊地知正治(1)軍役奉行となる | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

幕末史を好きな人なら、薩摩藩士伊地知正治の名前を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

伊地知正治は戊辰戦争時の官軍参謀として勇名を馳せました。が、相楽総三らの処刑を実行し、部下の有馬藤太が流山で近藤勇を逮捕し、更には会津母成峠の戦いや会津城攻めを指揮したことなどから、どちらかというと敵役のイメージが強いのではないかと思います。

 

伊地知正治は文政十一年(1828)六月十日、鹿児島城下千石馬場町に生まれました。幼名は竜駒といい、長じて竜右衛門、さらに正治(しょうじ)と名を変えました。諱は季靖(「すえやす」か)ですが、明治維新後は仲間たちとは異なり、諱の季靖ではなく、通り名の正治を名前としました。またその読みを音読みの「しょうじ」から訓読みの「まさはる」に変えたようで、明治期に書かれた伝記等では「まさはる」のふり仮名がふられていて、現在に至るまで「まさはる」の読みが一般的となっています。

 

さて、伊地知正治は3歳の時に早くも本を読めるようになって「千石の神童」と呼ばれましたが、まもなく大病を患ったため左目の視力を失い、左足も不自由になってしまいます。

 

それでも文武に精進を重ね、特に合伝流の軍学はその奥義を極めました。のちに藩校造士館の教授となった伊地知は、西郷従道や有馬藤太、三島通庸など多くの藩士たちを指導しています。

 

その一方で伊地知には周囲とは異なった、変わった言動が目立ち、「奇人」「変人」といった評価が少なからずあります。たとえばこのような・・・。

 

文久二年、島津久光は薩摩藩兵を率いて京都、次いで江戸へと上り、幕府に改革を迫りますが、その道中で兵の統率に功があったとして、伊地知は軍役奉行に任命されます。

 

そして帰国後に勃発した薩英戦争では砲兵を率いて英国艦隊を迎撃することになるのです。

 

が、英国艦隊の艦砲射撃は強力かつ正確で、薩摩藩の砲兵たちは当初反撃するどころか砲弾がいつ飛んで来るかと怖れて物陰に隠れる始末でした。

 

そんな中、伊地知はというと隠れることもなく砲陣地の真ん中に立って、ジッと英国艦隊を睨みつけていました。その様子が他の兵士たちには恐怖のあまり茫然自失となっているように見え、「伊地知さあは、恐ろしさのあまり頭がおかしくなりよった」と噂し合ったといいます。

 

しかし伊地知は軍略家。ことに合伝流は火砲による攻撃を重視した兵学です。伊地知にすれば、数キロ先からの艦砲射撃が着弾するまで時間があることは熟知していたのでしょう。もしもこちらをめがけて砲弾が飛んで来たら、それを確認した上で逃げるなり隠れるなりすれば良いと考えた上で、敵の砲撃の間隔や着弾までの時間を見極めて反撃のヒントを得ようとしていたのではなかったでしょうか。