伊地知正治(2)西郷にキレる | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

元治元年(1864)七月十九日、禁門の変が勃発すると、伊地知は西郷吉之助(隆盛)と共に薩摩藩総指揮官小松帯刀を補佐しました。そして御所に襲いかかった長州軍を撃退すると、翌二十日には天龍寺の長州藩本陣に攻め込んで、これを攻略。寺を放火するという手荒な真似をしましたが、長州藩と鳥取・岡山・加賀・対馬の各藩との密謀を示す文書などを多数押収すると共に、兵粮米五百俵を分捕りました。この兵粮米は、戦後焼け出された被災民のための炊き出しに利用されました。

 

そして慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見の戦いで薩摩をはじめとする新政府軍は旧幕府軍を破り勝利しました。そしていよいよ江戸へ攻め上ることになるわけですが、この時のエピソードがひとつ残っています。

 

伊地知は進軍前に薩摩藩兵の訓練をしていましたが、兵の中に一人、どうしても行進に遅れる者がいました。伊地知はこの兵を呼びつけると、「おはんは戦(いくさ)には向いちょらん。国へ帰れ」と言って旅費を手渡し薩摩へ帰るよう促したのです。

 

しかし、受け取った紙包みを確かめてみたその兵士は、金額の少なさに驚いて、「伊地知さあ、これだけではとても薩摩までの旅費には足りもはん」と抗議しました。伊地知はこの兵士を「バカモンが!これは俺(おい)が薩摩から京へ上った時に実際使った分じゃ。俺が来れたもんを、なんでおはんが帰れんち言うか」と怒鳴りつけて強引に薩摩へ帰らせたといいます。

 

そんなこともあったからか、薩摩藩の同志をはじめ、新政府軍内部から「伊地知は厄介者だから江戸には行かせないようにしよう」という意見が多く出ました。

 

結局、西郷吉之助が伊地知を説得することになりました。西郷は「伊地知どん、我々がみな江戸へ向かってしまえば、京の守りが心配じゃ。おはんは京に残ってくれんか」と伊地知に持ちかけましたが、その言葉を聞くやいなや

 

「吉!もう一度言うてみい!」

 

烈火のごとく怒った伊地知が刀に手をかけて詰め寄って来たので、驚いた西郷は慌てて部屋を飛び出したといいます。伊地知正治は藩の軍役奉行。つまりは主君島津家より正式に兵を託されている身です。江戸に島津の旗を打ち立てるのは自分の役目だという気概があったのでしょう。同僚とはいえ、西郷ごときが何を言うかという気持ちだったのではないでしょうか。

 

このことがあったせいかどうかはわかりませんが、東山道軍に属していた伊地知率いる薩摩藩兵は、本軍への合流が大幅に遅れることになってしまいます。そして、そのことが大きな悲劇を生むことになるのです。