新選組 加納惣三郎(4)実在したのか | またしちのブログ

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さて、『新選組銘々伝』の中で伊藤成郎先生は加納惣三郎を実在の人物と想定し、大和国十市郡荻田村(おいだむら)の高瀬道常が書き残した日記の中にある

 

六月六日夜、長州浪人召し捕りの由にて多人数ご出張、双方怪我人、死人数知れず。中にも十八歳になる男、今牛若と申す珍しき人なれど切腹に及び、また土州藩某料ご参詣に、止宿間違いにて壬生浪士組八人参り、四人斬ってかかり候ところ、おりながら四人に傷を負わせ逃げ去るあとへ、槍をもって腹を突き通す・・・

 

という記述を取り上げ、この十八歳の「今牛若」こそが加納惣三郎だったと考えたい、と結論づけられています。

 

もちろん、それを否定する気は毛頭ありませんが、今回は別な見方をしてみようと思います。

 

『維新史跡図説』などの、『新選組血風録』以前の書物に取り上げられた、おそらくは島原で語り継がれていたのであろう加納惣三郎像をもう一度見直してみると、以下のような人物だった事になります。

 

・十八歳、つまり島原の芸妓たちと同世代の美少年である。

・大店の息子であるが次男坊、つまり跡取り息子ではない。

・町人出身ながら剣術の達人で、並の武士より強い。

・馴染みの太夫と結婚の約束までする。

・太夫に会いたさに人殺しまでしてしまう。

・京の人間であり、地方から来た者ではない。

 

視点を変えて見れば、これは島原の芸妓たちにとって理想の男性像であり、理想の客の姿なのではないでしょうか。つまり、おそらくは話の元となった人物は実在したのでしょうが、その人物の話が遊郭の中で語り継がれていくうち、次第に芸妓たちの理想の男性像へと変貌していったのではないかと思うのです。

 

そう考えると、加納惣三郎の逸話の元となったのではないかと思われる人物がいます。実は新選組にはもう一人、島原行きたさに悪事をはたらいた末に命を落としたらしい者がいるのです。