新選組・不動堂屯所の謎(12)町名じゃない | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

『若山要助日記』の中の、新選組屯所建設かと思われた記事のうち、一つに興味深い事がわかりました。それはこちらの記述です。

 

慶応二年四月二十一日 晴

一、今日井手口より六条御隠居屋敷内、次に間の町裏まで浚(さら)い候事。


この日記を書いたのが東塩小路村の庄屋若山要助なので、この
「井手口(田に水を引くために水を堰き止めてある場所)から六条御隠居屋敷を通って間の町の裏までドブさらいをする」
は、当然東塩小路村内を通っているだろうと思うのですが、実は「間の町」は町の名前ではなく、通りの名前らしいという事がわかりました。

その上で、同書に添付されている「京明細大絵図」を参考に、その位置関係を見てみると

「京明細大絵図」部分模写

 

 

 

(間之町通を「?」としたのは、このあたりがちょうど本の中心部分に当たるので、のり付けしてしまわれて十分に確認出来ないからです)

 

どうやら、この時ドブさらいしたのは、江戸時代中期に作成されたこの地図には載っていない、青い点線のように東西に伸びる水路(場所は推測)だったようです。

 

おそらくは東塩小路村の集落の中央に、南北に伸びている水路にあった井手口から、同村から見て間之町通の裏側(=西側)に同じく南北に伸びている水路までをドブさらいしたという事でしょう。

 

東塩小路と不動堂の村境がどこであったかは定かではありませんが、このドブさらいが不動堂町(村)域をも含んでいた可能性はありそうです。

 

ただし、この記述の仕方だと「六条御隠居屋敷」は明らかに東塩小路村の方に含まれている事になりますが。