新選組の洛中における最後の屯所があったとされる不動堂ですが、西村兼文が『壬生浪士始末記』に
堀川通ノ東木津屋橋ノ南不動堂村
と書いた事により、新選組関係の記述では「不動堂村」と表記されるのが当たり前のようになっています。
が、実際は市場を中心にした町であったという事は以前書きました。実は、それどころか
『京都市の地名』(日本歴史地名大系27・平凡社)によると
不動堂町
東西を通る塩小路通を挟む両側町。西は堀川通にも面する。
平安京の条坊では左京八条四保一五町及び一〇町東側。平安中期以降は八条坊門油小路北の地。
寛永以後万治以前京都全図に「不動堂丁(=町)」とあり、以後変化はない。町名は当町に不動堂明王院があることによるという(坊目誌)。
当町域はもともと村落で「不動堂村」と称し、寛永十二年(1635)十月十日の所司代板倉宗重の下知状にも「不動堂村百姓中」とみえる。昭和41年塩小路を挟んで南北二町に分かれた。
とあり、寛永から万治にかけて、つまりは三代将軍家光から四代家綱の時代には既に「不動堂町」であったとしています。
また、『若山要助日記』に目を通して見た限りでも「不動堂村」という表記は今のところ確認出来ません。編者は「不動堂町」の表記をそのまま「不動堂町」とし、単に「不動堂」とされている表記を「不動堂村」を指していると解釈されているようですが、たとえば
不動堂町芋屋喜兵衛
不動堂芋屋吉兵衛
と同じ屋号を持つ二人を、喜兵衛は不動堂町、吉兵衛は不動堂村とするのはいささか疑問を感じます。
ちなみに、巻末の索引では不動堂村の村役とされている、同じく芋屋の吉郎兵衛は、日記中に
東寺村吉郎兵衛殿、中堂寺村由左衛門殿、不動堂町芋屋吉郎兵衛殿
とあるように、実は「町」の人である事がわかります。やはり幕末期、不動堂は町であったと解釈して良いのではないかと思われます。
では不動堂村は存在しなかったのか、西村兼文はいい加減な事を書いたのかと言われると、実はどうもそうではないらしいという事が分かってきました。
『若山要助日記』より(画像はお借りしました)。中央に「不動堂丁」