先日図書館に行って来ましたが、色々と調べてみた結果、前回の「(10)若山要助日記」で紹介した、同日記中の2つの記述
慶応二年九月二日 晴
一、今夕寄り合い。右はこの度六条御殿御畑地へ家立ちに相成りに付き、左相成り候ては村方田地の差し支えに相成り故、右相成らぬ様相談の事。
慶応二年四月二十一日 晴
一、今日井手口より六条御隠居屋敷内、次に間の町裏まで浚(さら)い候事。
が、新選組屯所のことを言っているのではないかという僕の推測は、どうやら間違っている可能性が出て来ました。
この日記の筆者若山要助は東塩小路村の庄屋だった人なのですが、『史料 京都の歴史3』(平凡社)の「山城国各村領主別石高表」によると、東塩小路村には
妙法寺
若宮八幡
佛光寺
六条道場(歓喜光寺)
一条道場
連仁寺
成就院(清水寺)
雑色衆知行
玉虫左兵衛代官所(京都代官)
の知行地があったようです。この事から、日記に記されている「六条」は西本願寺ではなく、歓喜光寺の事である可能性が高いと言う事になりそうです。
ただ、それはそれで不動堂の隣村に、新選組屯所とほぼ同じ時期に建設された屋敷があったという点には、まだ引っかかるものがあります。
特に今回、水路の重要性に気づけた事は個人的に大きいです。100名以上の隊士が入居するだけの規模があるのですから、必然的に既にあった水路上に建てられたか、そうでなければ新たに水路を建設したかという事になると思います。
そこらへんが大きな手がかりになるのではないかと期待しています。