本間精一郎の暗殺(5) | またしちのブログ

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翌文久二年閏八月二十一日朝、本間精一郎の首は四条大橋の北十四、五間(約25~28m)あたりに晒されていました。

今朝又於四条河原梟首有之。科書本間精一郎云々。雨中見物群集し由也。
(『平塚清影日記』文久二年閏八月二十一日)

一方、首のない胴体は高瀬川に投げ捨てられましたが、昨日からの大雨のために増水した川に流され、下流の松原上ルあたりに流れ着いていました。


さて、話は戻りますが本間精一郎は瓢箪路地を抜けてどこに行こうとしたのでしょう。只々追い詰められて逃げ込んだだけだったのでしょうか。

先日現地に足を運んでみて何よりも感じたのは、事件が起きた瓢箪路地と土佐藩邸の近さです。あるいは本間は土佐藩邸に逃げ込もううとしたのではないでしょうか。

本間を襲ったのが武市半平太以下土佐勤王党だったのに、土佐藩邸に逃げ込むなんてまるで関ヶ原の戦いの前に徳川家康の屋敷に逃げ込んだ石田三成のようですが、本間精一郎が土佐藩邸に逃げ込むのは、石田三成が徳川家康邸に逃げ込むことよりも合理性があります。

何しろ本間を襲っていた土佐勤王党には、吉田東洋殺害の嫌疑がかかっていました。しかも、その捜査の為に土佐勤王党に接近していた井上佐市郎も殺害されたのだから、吉田東洋暗殺が土佐勤王党の仕業であることは、もはや疑いようがない。あとは武市半平太が殺害の首謀者であるという証拠が掴みたかったはずです。

そんな中の襲撃です。しかもこの夜、武市半平太自ら襲撃に加わっていました。一連の天誅騒動の中で唯一のことです。よほど本間精一郎が憎かったのでしょうか。

もし本間精一郎が土佐藩邸に逃げ込むことに成功していたなら、首が飛んでいたのは武市半平太の方だったのかも知れません。


本間精一郎の遺体は法皇寺門前町に住む近江屋次郎兵衛の使い徳兵衛という者が引き取りを願い出て許されたと伝わりますが、この近江屋次郎兵衛と本間精一郎がどういう関係だったのか、よくわかっていません。

その後、本間の同志であった松本奎堂(翌文久三年、天誅組総裁の一人となって戦死)が「設位祭」(「位を設けて祭る」か。葬式を執り行うこと?)したといいます。(『本間精一郎事歴』国立公文書館)

また本間の弟源次郎が『勤王殉国事蹟』(国立公文書館)に著したところによると、「霊山招魂場に墓碑これ有りよし伝え承り仕り候」というのですが、現在のところ本間精一郎の墓は確認されていないようです。

おそらく霊明神社か、同社から分離した霊山護国神社のどこかに本間精一郎は眠っているのでしょうが、あるいは本間の墓を建てるつもりだった同志吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂らが翌年の天誅組の変で皆死んでしまったため、墓は建てられずじまいなのかも知れません。

本間精一郎 享年二十九歳。