菊と毒(1)帝は毒殺されたのか | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

慶応二年(1867)十二月十一日、風邪気味で体調が優れないのを押して宮中で執り行われた神楽を観覧した孝明天皇は、翌十二日、熱を出して寝込んでしまいます。

すぐに典薬寮の執匙(「匙」は御典医のこと。「執匙」はそのリーダー格の医師で主治医に相当する)高階典薬少允が診療しましたが、帝の症状に改善が見られず、高階は痘瘡(天然痘)の発症を疑いました。

しかし、外科医であった高階は痘瘡治療の経験に乏しかったため、痘瘡の専門医である小児科の医師を呼び出し診療に当たらせたところ、痘瘡に間違いないと診断され、十七日には武家伝奏等へ帝の痘瘡罹患が正式に発表されました。

この日以降、御典医15名が24時間交代で治療に当たるようになりました。『孝明天皇紀』中の「御痘瘡記」には15名の御典医の姓と官位が列記されていますが、『平安人物志』『洛医人名録』など、当時の史料を元に調べたところ


藤木典薬権助   加茂篤平
山本典薬大允   山本随
藤木但馬守     加茂成邦
高階典薬少允    高階経由
河原典薬少属    河原実徳(伊予守)
伊良子織部正    伊良子光順
山本図書頭      山本静達か
西尾土佐守      ?
福井主計助      福井登
高階丹後守      高階経支
大町弾正大疏    大町淳信(周防守)
高階筑前介        高階経徳
三角摂津介      三角有純
久野出羽介      久野恭
伊良子阿波介    ?



となるようです。ちなみに伊良子阿波介は伊良子家の分家筋なのでしょうが、敢えて特定する必要もないと思ったので今回は調べていません。一方西尾土佐守については後日改めて紹介したいと思います。

十七日までは一旦安定していた帝の容態は、十八日の夜に「御痘色二、三か処ばかり御紫色伺い奉り候」(『孝明天皇紀』中「御痘瘡記」)と突然悪化しますが、その後の経過は「十九日益々御機嫌よく」「二十一日御相応御安眠遊ばされ今晩至極御静養」などと順調に回復しているように思われ、食事も相応に摂っていたように記録されています。

ところが同月二十五日の夕方になって容態が急変し、「御九穴より御脱血」(『中山忠能日記』)し、ついには「同日亥刻(午後10時頃)過ぎ実は崩御」(『伊良子光順日記』※)。

しかし、孝明天皇の崩御は秘匿され、二十九日になってようやく公にされました。とは言え、一旦順調に回復しているかのように見えた病状が突然悪化し死に至ったことなどから、当時から毒殺の噂が絶えませんでした。

果たして孝明天皇は毒殺されたのでしょうか。



※『幕末入門』(中村彰彦・中央公論社)より引用。