峯尾小一郎の謎 (8) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

長谷川伸は『相楽総三とその同志』の中で赤報隊幹部だった峯尾小一郎は、その晩年を下谷(区)竹町で過ごしたと書き残しています。

その峯尾小一郎は、赤報隊在籍時に藤井誠三郎という変名を用いていました。

「竹町」にこだわってしまったためについ見落としていましたが、実をいいますと、江戸切絵図の下谷図を見てみると…


※下谷図(部分。国会図書館デジタルコレクションより)


のちの明治時代に竹町の南端となる生駒屋敷の向かい側に、峯尾小一郎の変名と同じ藤井姓の「藤井円四郎」という人が住んでいた事が分かりました。

ちなみに、藤井円四郎の屋敷がある通りの南側は明治期には二長町と呼ばれていました。

おそらくは単なる偶然なのでしょうが、ひょっとしたら何らかの形で縁戚があった可能性もあるのかも知れませんね。無論峯尾小一郎自身は「武州駒木野の人」なので、あるいは姉か妹の嫁ぎ先が藤井家だったとか…。

この辺りは大正期には住宅密集地だったので、御徒町駅を降りて峯尾の家を探し回った木村亀太郎からすれば、竹町か二長町かというのは、割りとどうでも良かったのかも知れません。


この辺りを訪ねる場合には、生駒屋敷取り壊し後にそのまま残った金比羅神社が目印となったはずなので、「竹町の金比羅神社の近くに住んでいる」と教えられて、そのまま竹町の町名が亀太郎の記憶に残ったのかも知れません。


…ただ、そうなると元々住んでいた藤井円四郎の家族はどこに行ったんだ、という話になりますが。



ちなみに、藤井円四郎については国立公文書館に「天保十年御普請元〆藤井円四郎支配勘定格被仰付御足高被下候様願候儀調」という史料があるようなので、れっきとした旗本だったことが分かります。