「新治」の高浜村(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

先日来、相楽総三の父小島兵馬の事を調べていると「新治」という、どこかで見覚えがある地名が出て来ました。ちなみに「にいはり」と読むそうです。

「新治県」は明治4年の第1次府県統合により「常陸国麻生県、石岡県、土浦県、志筑県、牛久県、若森県、松川県、龍崎県、下総国多古県、小見川県、高岡県が統合され、利根川を跨ぐ新治県が設置された。県庁は新治郡の土浦城本丸御殿に立地した。」(ウィキペディアより)のですが、翌年には利根川の北が茨城県、南が千葉県に分割編入され消滅した県です。

そして何を隠そう、新選組参謀伊東甲子太郎と、その弟鈴木三樹三郎の生まれ故郷が「新治郡」なのでした。

鈴木三樹三郎は天保八年(西暦1837年)七月十二日、常陸郡新治郡志筑藩の旧家に生まれた。(「岳父鈴木三樹三郎忠良」小野圭次郎)

そもそも伊東甲子太郎と相楽総三は、強い尊王攘夷思想と、そのために元々は幕府擁護の立場にありながら倒幕派に転じた点など、行動に類似点がかなり多いと感じていたし、まして弟の鈴木三樹三郎は赤報隊の一番隊と二番隊のそれぞれ隊長を務めた間柄です。

それが同じ「新治」という地名でつながっているとなれば、ひとつ調べてみようと思いました。

伊東兄弟が志筑藩のどこで生まれ育ったのかは分かりませんが

高野山本王院が志筑藩主に書面を送って忠明(伊東甲子太郎父)のために謝罪したので、罪は許されたけれども、帰藩することは許されなかった。それで文政十一年高浜村大橋まで戻って居を定め、寺院を借りて漢学塾を開いた。(「岳父鈴木三樹三郎忠良」小野圭次郎)

つまり、伊東兄弟の父鈴木忠明が漢学塾を開いたのが「高浜村大橋」というところだと分かりました。そこで調べてみたらなんと!

※『利根川図誌 』部分(国会図書館近代デジタルライブラリー)
(著作権保護期間満了)


利根川を挟んで南岸の赤丸が小島兵馬の史料に出てきた須賀山村と阿玉川村。中洲を挟んだ対岸の青丸が高浜村です。


相楽総三の父と伊東兄弟の父が利根川を挟んで、それぞれの“ライフワーク”に励んでいた?これは面白い事になるんじゃないか…

と思ったのですが…

(つづく)