赤報隊・相楽総三出自の謎(25) 相楽総三と酒井家 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

相楽総三は『相楽総三関係史料集』に「総三幼より幕臣酒井錦之助に養われ、二十歳にして文武両道に秀ず」(「相楽総三略伝」より)と書かれています。

しかし、相楽総三こと小島四郎左衛門が幼少の頃の酒井家の当主は、錦之助の父小平次でした。そして、その跡を継ぐべき嫡子もまた錦之助ではなく、その兄鐘之助でした。

つまり、相楽総三にとって錦之助は、主家の家族の一員ではあったけれども、仕えるべき人ではないという認識があったのかも知れません。

相楽は幼少時から「将来仕えるべきは鐘之助様」と教え込まれていたはずであり、その鐘之助の死は相楽総三にとって、物心ついた頃から叩き込まれていた「人生の目標」がなくなってしまった事を意味しているのかも知れません。

その為か相楽総三は、26歳の時に酒井家当主となっていた錦之助から「三百石にてこれを推挙せんとす」(同じく「相楽総三略伝」より)つまり、お前を三百石で家来に召し抱えてやると言われるのですが、これを丁重に断っています。



相楽総三が26歳の時というのは元治2年(慶応元年/1865)の事であり、相楽は既に尊皇攘夷の志士としての活動を始めていました。前年(元治元年)には水戸天狗党による筑波山挙兵に参加しようとしましたが、挙兵の首魁である藤田小四郎の方針が徹底を欠いていると不満を持ち、自ら下山しました。

ちなみに、筑波山挙兵には長州の大楽源太郎も参加していました。また真田範之介(多摩出身で天然理心流から北辰一刀流)も参加していましたが、上洛を目指す天狗党と別れて利根川を下った範之介は、江戸の潜入後に市中取り締まりの新徴組と戦って死にました。

その新徴組を抱えていたのが酒井家の宗家庄内藩であり、慶応3年に相楽率いる浪士団の狼藉に怒って三田の薩摩藩邸を焼き討ちしたのもまた新徴組でした。

また、相楽総三率いる浪士達は静寛院宮(和宮)と天璋院篤姫の保護をその大義名分としていましたが、これに対抗して幕府は三千石以上の旗本に静寛院宮及び天璋院の護衛を命じました。二千石の酒井錦之助もこれに加わっていた可能性があります。

相楽総三と酒井錦之助、この二人の因縁は余りにも噛み合わないものだったように思えます。


尊王攘夷の活動に身を投じていた相楽総三は、間違いなく高い志を持った志士だったでしょうが、その一方で酒井家に対する複雑な思いの積み重ねが、感情の根深いところで彼に影響を与え続けていたのかも知れませんね。