峯尾小一郎の謎 (7) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

秋更けた宵だった。下谷竹町の細い道路を曲がりくねった処で、下水が不完全な時分のことだから、溝があって板の蓋がしてあるのを踏んで歩くので一足ごとにかたかた言った。(『相楽総三とその同志』長谷川伸)

赤報隊幹部の数少ない生き残りであった峯尾小一郎のもとに、相楽総三の孫木村亀太郎が訪ねて来たのは大正7,8年頃だったようです。

下谷竹町は、現在の台東区台東2丁目と4丁目に当たります。江戸時代には秋田久保田藩佐竹家、津藩藤堂家、大洲藩加藤家、そして秋田矢島藩生駒家の屋敷があったところを、明治5年に民間に払い下げられ、のちにめざましい発展を遂げたといいます。

明治初期の地図を見ると広い庭を持つ屋敷が並んでいますが、大正元年の地図「東京市及接続郡部地籍地図. 下卷」では細かく区分けされており、多くの人が住んでいた事が分かります。

「東京市及接続郡部地籍地図. 下卷」下谷区部分(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)


竹町と書いてある一画が藤堂家屋敷跡の敷地。その下(南側)の金比羅神社がある一画が生駒家屋敷跡です。この金比羅神社は戦災で消失しましたが、戦後地元の人達によって同地に再建されています。そして藤堂家屋敷の上部に加藤家屋敷、右上に佐竹家屋敷がありました。


明治以降発展を遂げた竹町でしたが、関東大震災(大正12年)で一面焼失し、更に大戦中の2度に渡る空襲により壊滅的な被害を受けました。

そのため、現在の町は戦後に生まれ変わった姿と言え、残念ながら峯尾小一郎が住んでいた頃の面影はなさそうです。


そして周囲に先駆けて復興を遂げたこの界隈は、昭和の面影を色濃く残す、代表的な東京の下町となって現在に至っているのです。


竹町の名が残る公園


佐竹の名が残る商店街。このあたりに佐竹屋敷があったらしい。


細い道路を曲がりくねったところとはこんな感じ?


昭和と言えば…ラッタッタのロードパル(の残骸)