赤報隊・相楽総三出自の謎(24) 酒井家の謎 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

さて、本題の相楽総三からは少し外れてしまいますが、相楽総三とその父小島兵馬が仕えていた旗本酒井家についても少し考えてみたいと思います。

旗本二千石酒井家は、徳川四天王筆頭酒井忠次を祖とする名門です。が、酒井忠敬の時に宗家庄内藩6代藩主忠温の庶長子である忠順の子忠質を養子に迎えます。この忠質が酒井錦之助の祖父に当たります。

ちなみに忠敬の娘は公卿池尻栄房(いけがみ ながふさ)の正室となっているようです。あるいは忠質も婿養子だったのでしょうか。

いずれにしろ、この時に一度男子直系は絶えているという事になります。

そして、それを踏まえて考えるとちょっと気になるのが、先日紹介した酒井錦之助の書簡の中の言葉です。

家来の一人佐々木肇以外に「三代以上之者無御座候(三代以上仕えた者はいない)」というその言葉から、実は家来の方も錦之助の祖父忠質か父小平次より以前から仕えていた譜代の家臣はいない事になります。

しかし、既に説明した通り、酒井家は酒井忠次に連なる幕府創立以来の名門であり、代々仕えた譜代の家臣がいないというのはちょっと不自然な気がします。

ひょっとしたら、旗本酒井家は文化の大火あたりで家来共々全滅してしまったのではないでしょうか。

そう考えると、忠質を養嫡子として迎え旗本酒井家断絶の危機を乗り切ると共に、「譜代の家臣」を改めて雇い直したという事も考えられそうです。

そこで白羽の矢が立ち、譜代の家臣として召し抱えられた中の一人が小島兵馬だった、とは考えられないでしょうか。

そして、譜代は譜代なので、仕官年数は書く必要がなく「寛政11年」と生まれ年を書簡に記入したと考えられないでしょうか。(「赤報隊・相楽総三出自の謎(20)」→こちらをクリック

また、錦之助の叔父忠明は本家庄内藩の内紛に巻き込まれた挙句、出羽松山藩に幽閉されてしまいますが、その事と譜代家臣の断絶とが関係あるとは思えません。もし責任を取って家臣が皆切腹なんて事になっていたら、当然記録に残っているはずです。


旗本酒井家系図

↑…ちょっと字が見づらかったかも知れません。