平井収二郎と本間精一郎 ~史料は時に事実を隠す | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

「田中新兵衛 史料は時に嘘をつく」で『維新土佐勤王史』が平井収二郎の日記『隈山春秋』を参照しながら、同書に書かれている内容とは違う事を書いているのをご紹介しましたが、この『維新土佐勤王史』と『隈山春秋』を読み比べてみると、また興味深い点が出て来ました。

『隈山春秋』は、文久二年九月八日から十日にかけて、和宮降嫁に尽力した三奸両嬪、すなわち久我建通、岩倉具視、千種有文の三公卿と少将内侍(今城重子。『維新土佐勤王史』では少将局)、衛門内侍(堀川紀子…岩倉具視の実妹)の排斥に関する公卿中山忠光を中心とした動きを記録しているのですが、その書き始めである九月八日の記述が以下となります。

九月八日晴 始作春秋
此日中山殿之士大口出雲守寄書云、以有密議参入矣、一日大口来、問武市曰切本間精一郎者誰、此間極突然矣、衆大疑之、或云姦也。而未識其信偽於此有此事、予与半平太議曰、探彼之奸莫如今日、時不可失也。乃設酒肴而待。

午後出雲守来云、(以下十四字不文明)其余奸党天誅未加、以是若主人侍従忠光卿、今夕欲刺(不文明)余亦助之、而尚無人、勢不可成、恨不得刺本間者、与之倶焉、衆愕然而不信也。

此夕忠光卿微行、来半平太旅亭謂其情、如大口之言、而懇々切々、至是始知其信、而義未安、以故固止之、不聴、詐期以明夜乃令帰家、即夜半平太以此議語予。


国会図書館近代デジタルライブラリーを参照させてもらいましたが、文中の(以下十四文字不文明)、(不文明)も原書のままです。

そして『維新土佐勤王史』では、これをどう描いているのかというと

即ちこの月朔日の事なりしが、中山大納言家の大口出雲守は、瑞山の寓を訪い来り、その初対面にもかかわらず、突如として本間を殺せし者は何者ぞと問いかけたり。瑞山はただ存ぜぬとばかりにてこれを返せしが、何とも疑わしきより、瑞山はその夜平井隈山(収二郎)を訪い、かくと告げ互いに戒め居りたるに、同八日に至り、大口は更に一書を隈山に投じ「密事の御相談あり、午後参堂致すべし」とあるにより、隈山はひそかに瑞山と謀り、今夜こそ大口の人物を試むべけれと、瑞山と共に酒肴を設けて待つ程に、果たして大口は来りけり。

大口は声打ちひそめ語る様「今夜侍従公子忠光推参のはずに候。その子細と申すは、九条前関白を始め、久我建通、岩倉具視、千種有文、及び少将局など、かつて関東に通じたる奸党共、天誅未だ加わざるを主人忠光痛く慨き憤り、明日とも言わず今夜の中に、まず少将局を刺し殺さんと決心に及び、我等もこれに助力すべきが、何分に人少なにて大事を誤らんとも知れず、願わくば本間を殺せし勇者に助太刀を頼まん、と主人忠光よりの密命」云々と思い切りて言い出るに、さすがの瑞山等も驚くこと大方ならず。とにもかくも侍従公子は瑞山の寓へ御出相成るようにと大口を返せしが、いずれも半信半疑の体にて瑞山は急ぎ我が寓へと引き取りぬ。

さてこの夜、二更近き頃になりて忠光は山岡頭巾を眉深にかむり、瑞山の寓に忍び来るや、待ち受けし瑞山は奥の一間へこれを迎え、席を隔てて拝伏するに、忠光の怯めず臆せず語るところは、昼の程大口の言につゆ違わず、瑞山は容を改め忠光に向かい「千金の御身をもて匹夫のひそみに倣わせたまうは、近頃勿体無く、且つは御短慮の儀ならずや、かかる軽挙は第一朝廷の御為にも穏やかならねば、まげても思いとどまりたまえ」と様々に諫むるを、血気の忠光聞き入れず「いやとよ、ひと度麿が心にかくと定めしからは、おめおめ思いとどまるべきことかは」と血走る眼に決心の体見ゆるより、瑞山も是非に及ばず、然らば明夜までに同志の者をも語らい置き申すべしと、ようようひとまず忠光を帰邸せしめ、瑞山夜の明くるを待ちかねて急ぎ隈山の許に行き、かくと告げぬ。


いきなり揚げ足取りのような事を言わせてもらいますが、『維新土佐勤王史』では、大口出雲守が武市半平太のもとを訪れたのを「この月朔日(文久二年九月一日)」の事としていますが、『隈山春秋』には九月八日の日記冒頭に「此日中山殿之士大口出雲守寄書」つまり、この日(八日)に大口出雲守は「以有密議参入矣=密議があるので、参りたい」と書をよこし、そして武市のもとを訪問したわけですから、「一日大口来」の「一日」は「九月一日」の事ではなく、「その日の内に来た」の意味であると思われます。

さて、本題に戻りましょう。『隈山春秋』で不文明とされている部分に何が書かれているのかを『維新土佐勤王史』から抜き出してみますと

(以下十四文字不文明)にあたる部分は
「今夜侍従公子忠光推参のはずに候。その子細と申すは、九条前関白を始め、久我建通、岩倉具視、千種有文、及び少将局など、かつて関東に通じたる奸党共」

であり、(不文明)にあたる部分は
「明日とも言わず今夜の中に、まず少将局を刺し殺さんと決心に及び」

である事がわかります。つまり「中山忠光卿が攻撃しようとしている相手」を書いている部分がいずれも「不文明」になっているわけで、これはやはり意図的に読めなくしたと考えるべきではないでしょうか。

平井収二郎は翌文久三年に土佐藩に逮捕され切腹させられてしまうのですが、その際に自ら書いた日記『隈山春秋』の「バレたらマズイ部分」に墨を入れるなどして証拠隠滅をはかったのではないか、そう思えてなりません。

ただ、そう考えると『維新土佐勤王史』の解釈どおりで正しいのか、また疑問が生じてくるのです。

もちろん、武市や平井が中山忠光卿と協力して三奸両嬪の排斥に成功したのは偽ざる事実ですし、『維新土佐勤王史』は何も『隈山春秋』のみを参考して書かれているわけでもありません。他の関係者からの取材も当然あったはずです。

ですから、あくまで「穿(うが)った見方」である事は否定出来ないのですが、「三奸両嬪の排斥」は既に実行されて、平井が逮捕される以前に終わっている話しですし、中山忠光卿がそれを持ちかけた事や、卿が少将局を刺そうとした事は平井本人や土佐勤王党にとって、特に「バレたらマズイ」話しではなかったはずです。

そう考えると、どうしてもこの不文明の部分は違う事が書かれていたのではないかと考えざるを得ません。そして、それは当然平井収二郎及び土佐勤王党にとって「バレたらマズイ」話しであったはずです。

『維新土佐勤王史』とは違う事実の中で、『隈山春秋』の記述全体を考えてみると、その「バレたらマズイ」一件は前月、すなわち文久二年閏八月の本間精一郎殺害以外にないのではないでしょうか。


つまり、僕が考えるのは中山忠光卿は本間精一郎と共に三奸両嬪の排斥を実行しようとしていた。ところが目前になって片腕であった本間を何者かに殺害されてしまう。ぜひとも本間を殺した奸党に天誅を加え、その仇をとりたい。

忠光卿はまさか、目の前にいる武市や平井がその「奸党」だとは思いもせず、なおかつ別な誰か(おそらく敵である三奸両嬪もしくは幕府の誰か)がその奸党であると思い込んで、武市らに本間の仇討ちに助力してくれるよう相談を持ちかけたのではないでしょうか。

相談を持ちかけられた武市や平井は、素知らぬ顔で「仇討ちは賛成出来ませんが、ならば我らが本間精一郎に代わって尽力致しましょう」と提案したのではないでしょうか。

なんだか、「武市半平太バッシング」みたいになってしまって恐縮ですが、こう考えると、武市らはこの時になって、つまり殺したあとになって初めて本間精一郎が自分たちと同じ志を持った「志士」であった事を知ったのであり、それはつまり短慮から同志を殺してしまった事に他なりません。それは平井にとっても武市にとっても志士としての気質を問われかねない大失態であり、藩に逮捕されるにあたって絶対に「バレたらマズイ部分」であったはずです。