思わぬところに山口一 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

新選組の斎藤一(弘化元年・1844~大正4年・1915)は、幕臣山口祐助の次男として生まれました。つまり本名は山口一となります。

斎藤一が新選組に加入するまでの道のりはよく分かっていません。永倉新八の『浪士文久報国記事』や小島為政の『両雄士伝』から試衛館に出入りしていたらしいという事は分かっていますが、幕臣の家柄のためか浪士組には加わっておらず、また斎藤一の子孫である藤田家の言い伝えによれば

十代の終り頃に、ちょっとしたことで意見の違いから人を斬りまして、父祐助が親しくしていた京都の吉田某がやっておりました剣道場へ匿われたそうですが、そこで道場主の代稽古をしたと言いますから、相当に腕が立ったようです。その頃に例の新選組の隊士募集があり、京都で入隊いたしました。
 (「わが祖父斎藤一」藤田實) ※『斎藤一の生涯』より引用

とあります。


実を言いますと、新選組とはまったく関係のない某史料に、まさに斎藤一の「十代の終り頃」であった文久二年(1862)に、「ちょっとしたことで」かどうかは別として「意見の違い」から人を斬った「山口一」の記述があります。曰く

山口一左右にて何分跡取押之義大かしく候に付、誰ぞ差越鎮撫いたし可然と之事に而、其段形行細々及言上候処 (以下略)


そして、この記述がある史料というのが、なんと


『大久保利通日記』!!


そして日付が文久二年四月二十三日…とくれば、幕末史にお詳しい方ならピンときたでしょう。これは寺田屋騒動に関する記述の一部なのでした。

つまり、山口は島津久光が派遣した鎮撫使の一人山口金之進の事で、「一」「始め」の当て字のようです。つまり

「山口金之進を始めとする鎮撫使たちは、(有馬新七らを斬ったものの)残りの者を取り押さえるのは難しいので、誰か応援の者を差し遣わしてほしいと言上しに戻ってきた」

というような意味らしいです・・・。もう、


驚かすな大久保さん!!


と言いたいところですが、期待して読んでいただいた皆様は


ふざけんなまたしち!!!


でしょうね・・・。ホントに


ごめんなさいm(_ _ )m