またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

【あなたの街のシンボル教えて!】

 

「山科で」って考えたら天智天皇陵なのかな~と思いますが、自分の生活圏っていうことだったら、やっぱり毎日行ってる円山公園でしょうか。

 

 

 

今朝9時ぐらいに撮影したんですが、ご覧の通りガラガラです。

 

 

ちなみに昨日の午前中に撮った八坂神社の写真。

 

 

 

マスコミ報道ではどうしても日中関係に関連付けて「中国人団体客がいなくなった」ってことばかり強調されますが、他の国の団体さんもほぼ見ないです。先月目立った東南アジア(たぶんインドネシア)やアラブ系の団体さんもパッタリ見なくなりました。修学旅行も先週ぐらいで終わったみたいだし、要するに今は閑散期なんでしょうね。

 

 

それに団体客こそ見なくなりましたが、それでも一番多く目にするのはやはり中国人観光客です。こんな中で日本にやって来る人たちって、やっぱり日本が好きなんでしょうね。そういう人たちに国に帰ってから「やっぱり日本は楽しかった。もう一度行きたい」って広めてもらうのが一番・・・なのかも。

 

 

 

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幾松の父・木崎市兵衛は佐々木六角源氏太夫だった(かも知れない)。その佐々木六角源氏太夫については当ブログで過去に何度か取り上げています。

 

 

 

佐々木六角源氏太夫は戦国時代に滅んだ近江(滋賀県)の大名佐々木家の末裔を自称し幕末期の京で活動していた人物で、祖先の居城・観音寺城跡地に石碑を建てる名目で献金を募る内容の安政五年(1858)に書かれた書状がかつてオークションサイトに出品されていました。

 

 

『幾松と新三本木』(二)の中で、通説では木崎市兵衛は嘉永四年(1851)に死亡したとされていますが、実は同年に家督を譲られたのであり、そののち家族を引き連れて京に引っ越したのではないかと推測しました。そして娘の松(のちの幾松)を置屋に売ったのが安政三年(1856)です。その2年後に佐々木六角源氏太夫は上記の献金を募るという活動をしていたということになります。

 

 

木崎家は武家ではありませんでしたが、宇多源氏佐々木六角氏の末裔を称し、多くの分家を有する若狭の名門一族でした。市兵衛の家系はその分家の中のひとつであったと思われますが、それはつまり故郷に残れば継ぐべき家業があり家もあり資産もあったことを意味しますし、市兵衛はそれらをすべて投げ捨てて京を目指したということを意味します。

 

 

それだけの決意に至る強い思い、あるいは志とは何だったのかを考える時、やはり黒船来航に端を発する幕末の動乱の中で、志士として名を挙げることで宇多源氏佐々木氏を復興させるということを真剣に考えていたんじゃないか、というのをひとつの可能性として考えてみたい。そう考えるてみると、娘の松を置屋に売り飛ばしたのは、決して生活が苦しかったからではなく、志士としての「活動資金」を得るためだったと考えることが出来ます。

 

 

娘を売って得た金銭を元に、志士として、あるいは佐々木六角氏の末裔としての体裁を整え、その後の活動の礎としたのではないでしょうか。そして文久三年(1863)には京都守護職をつとめる会津藩に在京浪士の一人として呼び出されることになりますが、「京都守護職御預かり浪士」の座は江戸からやって来た近藤勇や芹沢鴨らの関東浪士たちに奪われてしまうのです。

 

 

 

※.木崎家系図

 

 

 

 

 

 

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残念ながら東京土産をくれるような人はおりませんが(笑)、もし貰えるとしたらうれしいのはお土産よりも写真かなぁ。上野公園とか神田の古書街とか、今どうなってるか、昔とどう変わっているのか興味ありますね。

 

 

そういえばアメ横もすっかり様変わりしたと以前テレビで言ってましたね。埼玉県に住んでた頃、年末にアメ横に行ってタラバガニのニセモノ(アブラガニだったかな)のボイル1980円のヤツ買ったっけなぁ。あれはあれで美味しゅうございました。

 

 

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先日、通販サイトのAmazonで購入したオーブントースターが配達予定日をとっくに過ぎたのにまだ届いていないという話をしましたが、今日ようやく話が進展しました。Amazonからメールがあったのです。

 

 

こういう場合は配送業者ではなくAmazonが対応することになっているらしく

 

大変お手数をおかけいたしますが、お届け予定日を経過しても商品をお受け取りいただけておらず、Amazonから返金のお知らせも受信されていない場合、下記のURLからAmazonカスタマーサービスにご連絡くださいますようお願いいたします(配送業者へご連絡いただきましても、商品の返金・交換などのご案内はいたしかねます)。 

 

とのことでした。そこで「下記のURL」をクリックしてAmazonの注文履歴のページに飛び、以下「該当商品をクリック」→「注文内容の確認、変更、キャンセル」→「カスタマサービスへ連絡」→「今すぐ電話をリクエストする」→記入欄に自分の電話番号を入力

 

 

で、すぐにAmazonの方から電話が来ました。商品がヤマトの配送センターで預かったあと行方不明になっていることはオペレーターさんも理解していたようで、話はスムーズに進みました。Amazonからヤマトに確認したところ、今日時点でも商品の所在が不明との回答だったようで、結局返金対応ということになりました。

 

 

Amazonの対応には誠意を感じて好感を持ちましたが、ヤマト運輸は何やっとんねん!年末の繁忙期で大変なのは理解するけど、結局預かった品物が行方不明になっているというのに自発的には何もしてないんですよね。怖いから当面通販の利用は控えることにします。

 

 

午前中、御池大橋の上から撮りました。写っているのは二条大橋です。

 

 

 

久しぶりに虹を見ました。天地真理の歌に♪虹の向こうは晴れなのかしらってありましたね。『虹をわたって』という歌らしいですが、きれいな言葉だけど現実で考えたら「見たらわかるだろ」ってハナシですね(笑)。

 

 

今、京都市内は「観光オフシーズン」とでも言うべきでしょうか。修学旅行の学生団体も見ないし、外国人観光客も少ないです。

あ、あの・・・・・・わりと切実に現金がほしいです。

 

 

お、お米券じゃない方がいいです・・・・・・。

 

 

 

 

 

・・・お米券でお餅って買えるんだろうか。

 

 

 

 

 

 

先日、通販サイトのAmazonでオーブントースターを購入したのですが、商品到着予定日を5日過ぎたのにまだ届きません。

 

 

注文した翌日にはヤマト運輸の配送センターに商品が届いた旨、メールがあったのですが、それっきり何の音沙汰もなし。情報が更新されていないからか、注文のキャンセルも出来ないし、ヤマト運輸のカスタマーサポートに問い合わせしても音声対応ばかりで、「◯◯の時は1を、△△の時は2を押して下さい」と言われてもどちらも該当しないので話がまったく進まない・・・。

 

 

たとえば倉庫内で破損、もしくは紛失したとか、何か情報があれば気持ちも落ち着くし、対応のしようもあるのですが、とにかく何も情報がなく、ヤマト運輸から何か連絡があるのを待つしかないようです。

 

 

年末で大変なのはわかるけど、ちょっとダメすぎるんじゃないかな、こういう無対応。

 

 

今百円玉1枚で買えて満足出来るっていったらベビースターラーメンぐらいかな?もう袋ラーメンもおにぎりもチョコレートも百円玉じゃ足りませんもんね。
 
 
驚いたことに「ブログに書くネタがない時は?」をクリックしたら、ちゃんとページが切り替わりました。もうずっとエラーが出っぱなしでブログネタのページに移動しなかったのに、いつの間にか直っていたようです。何年ぶりだろう・・・(笑)

 

 

 

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今回の話は幾松について調べている間に偶然みつけたある事柄から思いついた僕の推論、いや妄想といった方が良いかも知れないような話です。ただ、ちょっと面白いんじゃないかと思うので、よろしければお付き合い下さい。

 

 

幾松の実父は木崎市兵衛といい、若狭国小浜(現在の福井県小浜市)の出身らしいという話は『幾松と新三本木(二)』で紹介しました。若狭の木崎家は名家であったものの平民の家柄だったということも書きましたが、さかのぼれば元々は武士であり、戦国時代に敗れて平民になった家柄なのです。

 

 

実は若狭の木崎家は宇多源氏(近江源氏)佐々木家の末流にあたり、木崎家の祖・常珍は戦国時代の近江観音寺城主・六角承禎こと佐々木義賢の弟であり、六角氏が織田信長に滅ぼされた後に若狭まで落ち延び土着したと伝えられています。『若越郷土研究 15(2)(81)』(福井県郷土誌懇談会/1970-03) 収録の「木崎家の考察」(赤見貞)

 

江州人常珍は系図が示すように、人皇第五十九代宇多天皇を祖とする宇多源氏の子孫であり、その兄義賢は江州観音寺山城主である。慶長六年(1601)小浜城主になった京極高次家や小浜城主酒井忠隆に召し抱えられた伴信友の曽祖父信利(旧姓立入)なども同族であることが判明した。

 

 

とあります。この宇多源氏佐々木氏については『京都見廻組史録』(菊地明)に以下の説明があります。

 

 

六角佐々木氏は宇多天皇の第九皇子・敦実親王を祖とする宇多源氏の嫡流で、敦実親王から五代目の経方が佐々木源次大夫と称えた。(中略)そして、敦実親王から十代目の佐々木泰綱が京都六角堂に屋敷を構えて「六角」を称していた。

 

 

さて、幕末史に詳しい人ならここらでピンときたかも知れません。実は幕末の京都にこの宇多源氏佐々木氏の末裔を名乗って一勢力を築いていたらしい謎の人物がいます。その名も佐々木六角源氏太夫。

 

 

 

 

 

 

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(本人写真を元にAIで加工再現しました)

 

元治元年(1864)に桂小五郎(慶応元年より木戸姓に改める)のあとを追って京を離れた幾松は、そのまま長州で明治維新を迎えました。

 

 

おそらく明治元年(1868)中に二人は結婚したと思われますが、婚姻に際して身分の違いを解消するため、幾松は長州藩士・岡部富太郎の養女となり、名を岡部松子に改めます。

 

 

そして明治二年(1869)には明治新政府の中心人物となった夫・木戸孝允と暮らすべく東京に移り住むことになります。木戸は激務の中でも二人連れで箱根に療養の旅に出るなど、松子を大切にしたようです。

 

 

松子が京都に帰って来たのは明治十年(1877)五月六日のことでした。最愛の夫であった木戸孝允が京都出張中に倒れたという報せを受けて東京から駆けつけたのですが、木戸の容態は回復することなく同月二十六日に息を引き取ってしまいます。松子は髪を下ろし「翠香院(すいこういん)」と名乗って木屋町に居を構え余生を過ごすことになります。

 

 

その後は東山霊山墓地に建てられた夫の墓参りを日課としました。一方、子宝には恵まれず、京都では木屋町に居を構えて養子の忠太郎と共に余生を過ごしました。

 

 

そして明治十九年(1886)四月十日、松子は上京31組上樵木町18番地にて息を引き取ります。胃の病いだったといわれます。享年44歳。上樵木町18番地は木屋町筋なので、おそらくずっとここで暮らしていたのでしょう。その場所については中村武生先生がかつて料亭幾松があった場所と推定されておられるようですが、以前このブログで書いたとおり、料亭幾松のあった場所は、かつて神道無念流練兵館で桂と剣友だった水戸藩士・吉成勇太郎の借家があった場所と推定され、吉成はすでに水戸に帰っていたとはいえ、決して広くない上樵木町の中で何も縁のない場所よりも、何かの縁があった場所に住居を求めたと考える方が自然と思われるので、中村先生の考えに僕も賛成です。

 

 

そして、それはつまり家の目の前がかつて佐久間象山が斬られた場所であり、北隣の屋敷が大村益次郎が斬られた場所ということになります。そう考えると果たして松子にとって居心地の良い場所であったかどうか、疑念もなくはありません。

 

 

※.木戸松子終焉の地?料亭幾松跡(白い仮囲いの場所)

 

 

 

幾松こと木戸松子は明治十九年四月十三日に霊山墓地の夫・木戸孝允の墓の隣に埋葬され、二人の墓は今も変わらず並んで建っています。

 

 

※.松子の墓(左)と木戸孝允の墓(右)。

 

 

 

※.木戸松子(幾松)の墓。「贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子墓」とある。

 

 

(終)