またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

以前にもブログ記事にしたかも知れませんが、若い頃働いていたバイト先に一人いました。普段はとてもヘンな人で仕事さぼって本を読んだり、今で言うコミュ障で人付き合いは全然ダメだった人なんですが、僕が仕事中に計算機片手に二桁✕二桁✕二桁の計算をしようと数字の口にした途端、ボソッと「◯◯◯◯」と即答するのです。で、計算機に打ち込んでみたら見事正解。

 

 

「◯◯さん、すごいですね」と誉めると嬉しそうな顔をするので、ためしに「じゃあこれは?」と色々と計算式を言ってみると、言ったそばからみんな瞬時に答えてしまいます。計算に関しては本当に天才だったと思います。聞いてみたらM治大学法学部を卒業しており、弁護士になるべく司法試験を受けたのですが面接で落ちたのだそう。結局、そのバイト先でも仕事をサボってばかりいるので上司に注意され、それに逆ギレして殴りかかったか何かでクビになってしまいました。

 

 

で、その人の風体が『相棒』season3の第10話「ありふれた殺人」に登場する、正名僕蔵さん演じた人物にソックリなんですよね。その人物も司法試験を受けるべく勉強中という設定で、顔つきもあんな感じ(下の画像参照)だったし黒縁のメガネに短い頭髪、それにいつもはボソボソしゃべるのにキレたら急に大声を出すところも、まるであの人を真似たんじゃないかというぐらい似てます。正名僕蔵さんにお会いする機会がもしもあったら「あの役作りのモデルは誰ですか」と聞きたいぐらい。まあ、お会いしてお話をうかがう機会なんてあるはずもないんですけど。

 

 

(画像はお借りしました)

 

 

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・・・と行くたびに毎回思うのが、地下鉄東西線の「三条京阪駅」という駅名です。京阪の三条駅と連絡しているのですが、三条京阪駅はあくまで地下鉄の駅なので京阪線には乗れません。しかも三条京阪駅を利用するには「京阪電車 三条駅」と書かれたビルや階段を利用しなければならず、ややこしいことこの上ない。

 

 

実際、三条京阪駅の券売機の前まで来て引き返して行く旅行客をたびたび見かけます。たぶん京都駅か伏見方面に行きたかったんでしょう。更に「三条京阪」でネット検索しても上位に出てくるのは京阪三条駅関連の記事や写真だったりする。・・・なんで地下鉄の駅に「京阪」って入れたんでしょうね。

 

 

なんだったら「地下鉄三条駅」とか「鴨川東駅」とか、あるいは「三条大橋駅」の方がわかりやすいし親しみやすいような気がするのですが、どうでしょうね。あ、「三条大橋駅」いいんじゃないかな。

 

 

昭和四十八年(1973)のヒットというから、もう半世紀前になっちゃうんですね。はじめて見たのは『8時だよ全員集合』だったと思います。独特の手の振り付けが印象深くて、週明けの月曜日には「あれ見た?」とみんなが話題にしていた記憶しています。

 

 

曲自体は大人の恋愛を歌った結構生々しい内容なので、まさか子どもウケするとは金井さん御本人も関係スタッフも思いもよらなかったんじゃないかと思います。シンプルでいて印象深い振り付けと無表情で坦々と歌うスタイルが当時の子供たちには斬新だったんだと思います。

 

 

久しぶりにYOUTUBEで見たのですが、この手をやや高く上げる振り付けは、むしろボディラインをきれいに見せるためだったのかな、と邪推してしまいます。もう無邪気な子供の頃には戻れませんね。まあ、この年で子供の頃の感受性を保ったままだったりしたら、それはそれでアレなのかも知れませんが。

 

 

 

 

 

 

僕の部屋のベランダに数年前にツバメが巣を作ってしまい、それ以来毎年やって来てはせっせと子育てに励んでいます。

 

 

先週ぐらいから鳴き声がやかましくなって来て、数日前からひな鳥らしきのが数匹、物干し竿の上にチョコンと乗っかって飛ぶ練習を始めたようです。まだ怖いのか、翼を広げてはみたもののなかなか飛び出さなかったり、パッと飛び立ったかと思ったらすぐUターンして物干し竿に戻ったり・・・。見ていると、まさに「負けるな一茶これにあり」の気持ちになります(笑)。

 

 

巣立ちの日も近い。

 

いると思います。っていうか、いてくれた方が楽しいですよね。

 

 

UFOでひとつ思い出したことがあります。あれは小学6年生の時のことでした。前年に両親が離婚し、母に引き取られた僕は天候を余儀なくされたのですが、その新しい方の学校のクラスでUFOの目撃談がありました。

 

 

残念ながら僕が転校してくる前の話だったのですが、授業中に誰かが窓の外を見ておかしなものが飛んでいることに気づき、「あっUFOだ!」とか何とか叫んだんだそうです。すると担任の教師ふくめてみんなが窓に駆け寄り、教師を含めて何人もがUFOらしきものをたしかに見たんだそうです。

 

 

へえ、本当にUFOっているんだと思いながらその窓から外を眺めると、海上自衛隊の哨戒機P2JだかP2Vだかが鹿屋航空基地の滑走路から飛び立って行きました。

 

 

 

 

・・・それ、自衛隊の何かじゃないの?

 

 

とは転校してきたばかりの僕にはとても口に出来ませんでした。きっと観測気球か何かだったんだと思います。

 

 

 

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『イエロー・リバー』は、イギリスのバンド・クリスティのデビュー曲として1970年4月にリリースされ、本国イギリスで1位になったほか、日本をはじめ世界中で大ヒットしました。・・・まあ、僕がこの曲を知ったのはだいぶあとになってからなのですが。

 

 

 

 

この『イエローリバー』が発売された経緯は少し変わっていて、もともとこの曲は、伝説のデッカ・オーデションでビートルズを負かしたことで知られるベテラングループ・トレメローズの新しいシングル候補曲としてジェフ・クリスティが作曲したもので、70年初頭にトレメローズによってレコーディングされました。

 

 

しかし当時のトレメローズは、メンバー自身の作曲による最新シングル『コール・ミー・ナンバー・ワン』がヒットしており、次のシングルもオリジナル曲にしたいと考えていたため、『イエローリバー』をシングルとして発表することは見合わせることになりました。しかし、この曲をこのまま埋もれさせてしまうのは惜しいと考え、トレメローズがレコーディングした演奏トラックに、ジェフ・クリスティ自身の歌をオーバーダビングして彼自身のデビュー曲とすることにしました。

 

 

またデビューに際してジェフ・クリスティのソロではなくバンドとしてデビューさせようということになり、ジェフはベースを担当し、他にトレメローズのメンバー・アラン・ブラックリーの弟であるマイク・ブラックリーがドラムスを担当、マイクの古いバンド仲間であったヴィック・エルメスがギター担当となり、バンド名はジェフの名前をそのままとってクリスティとしました。

 

 

・・・とはいえ、前述のとおりシングルとして発売された『イエローリバー』はジェフのボーカル以外はコーラスも含めすべてトレメローズによるレコーディングだったのですが。

 

 

※.クリスティ版『イエローリバー』

 


 

 

 

 

 

※.トレメローズ版『イエローリバー』

 

 

 

 

Yellow River

 

So long boy, you can take my place

Got my papers, I got my pay

So pack my bags, and i'll be on my way

To Yellow River

 

Put my gun down, the war is won

Fill my grass high, the time has come

I'm goin' back to the place that I love

Yellow River

 

Yellow River, Yellow River

Is in my mind and in my eyes

Yellow River, Yellow River

Is in my blood, it's the place I love

Got no time to explanation

Got no time to lose

Tomorrow night, you'll find me sleepin' underneath the moon

At Yellow River

Cannon fire lingers in my mind

I'm so glad that I'm still alive

And i've been gone for such a long time

From Yellow River

 

I remember the night were cool

I can still see the water pool

And I remember the girl that I knew

From Yellow River

 

Yellow River, Yellow River

Is in my mind and in my eyes

Yellow River, Yellow River

Is in my blood, it's the place I love

Got no time for explanation

Got no time to lose

Tomorrow nights you'll find me sleepin' underneath the moon

At Yellow River

 

Yellow River, Yellow River

Is in my mind and in my eyes

Yellow River, Yellow River

Is in my blood, it's the place I love

 

 

【意訳】

 

あばよ相棒、僕の場所を使ってくれ

書類を手にし 給料ももらい

荷物をまとめて僕は行くんだ

イエローリバーへ

 

銃はもういらない 戦争に勝ったんだ

祝杯を上げよう その時が来たんだ

僕は帰れるんだ 愛する町イエローリバーへ

 

イエローリバー イエローリバー

僕の心の中に 僕の瞳の奥に

イエローリバー イエローリバー

僕そのもの 僕の愛する場所

説明を聞いてる時間はない

グズグズしていられないんだ

明日の夜にはイエローリバーの月明かりの下で眠るんだ

 

砲火が脳裏に焼き付いている

でもありがたいことに僕は生きている

もう長いこと帰っていないんだ

イエローリバーに

 

夜の寒さを思い出すよ

遊泳池が目に浮かぶよ

そして女の子たちを思い出すよ

イエローリバーの

 

イエローリバー イエローリバー

僕の心の中に 僕の瞳の奥に

イエローリバー イエローリバー

僕そのもの 僕の愛する場所

説明を聞いてる時間はない

グズグズしていられないんだ

明日の夜にはイエローリバーの月明かりの下で眠るんだ

 

イエローリバー イエローリバー 

僕の心の中に 僕の瞳の奥に

イエローリバー イエローリバー

それは僕そのもの 僕の愛する場所

 

 

 

作者のジェフ・クリスティによると、この曲は南北戦争の帰還兵をイメージして作ったそうです(そういえばレコードジャケットのコスチュームは南北戦争の兵隊っぽい)が、発売当時はベトナム戦争の真っ只中であったこともあり、多くの若者の共感を生んだそうです。ちなみに「イエローリバー」という町は実在しないようですが、ジョージア州に南北戦争に関連する歴史建造物「イエローリバー郵便局」が現存しているのだそうで、あるいはそのあたりからインスピレーションを得たのでしょうか。

 

 

さて、この『イエローリバー』は戦争を無事生き延びて故郷に帰るうれしさを歌ったもの・・・とずっと思っていたのですが、最近歌詞を読み返してみて、果たして本当にそうだろうかと疑問に思えてきました。

 

 

故郷に帰るというのに、この歌の歌詞は故郷のイエローリバーで待っているであろう家族や友達や恋人のことにはひと言も触れられていません。どうしてなのでしょう。それに長らく戦地にいたのだろうから、普通は故郷に帰ったらまず実家に帰って自分のベッドでゆっくり寝たいと思うはずです。「月の下で眠る(sleepin' underneath the moon)」は野外で寝ることを意味するので、ちょっと不思議な話です。

 

 

しかも「you see me」や「you meet me」ではなく「you find me」なのです。つまり「会う」のではなく「君は僕が月明かりの下で眠るのを見つけるだろう」というのです。さらに言えば、この『イエローリバー』が南北戦争をテーマにしているのなら、あの時代「今日」前線の野営地か、あるいは野戦病院にいるのであろう人が、明日の夜までに故郷に帰るというのは現実的にはまったく不可能な話だと思われます。

 

 

つまりここでいう「sleepin'」は単に「眠る」の意味ではなく「永眠」を意味しているのではないでしょうか。つまり、この歌の主人公は今はかろうじて生きているけれども、もうすぐ永遠の眠りにつく。「sleepin' underneath the moon」は墓地に埋葬されることを暗示し、残念ながら生きて故郷を見ることはない。それを自覚しているから故郷の家族や友人や恋人にはもう会えないこともわかっている。だから触れない。だから除隊手続きの「explanation(説明)」も聞いてる時間はない。早くイエローリバーに帰してくれ・・・

 

 

 

 

実はそういう意味の歌だったんじゃないか、と考えるのは深読みしすぎでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都は朝から雨でした。なので午前中の散歩は早めに切り上げて帰宅。すると家につく間際になって晴れてきました。まあ僕の人生、いつもこんな感じです・・・。

 

 

で、家の近くでカタツムリを見ました。カタツムリを見るのは何年ぶりだろう。なんだか色が薄くて白い。

 

 

 

嫌いな人、苦手は人はごめんなさい。

 

 

ちなみに天気予報を見てみると京都は向こう二週間ぐらい雨マークがついています。ようやく梅雨入りでしょうか。

 

 

カタツムリで思い出したけど「♪サーロインステーキ エスカルゴ デミタスコーヒー エトセトラ~」って歌があったなあ。リンリン・ランランだったけ・・・。

 

 

 

慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見の戦いが発生し旧徳川幕府軍は薩摩・長州を中心とした新政府軍に敗れ、京都見廻組も佐々木只三郎をはじめとする隊士たちが次々と斃れていきました。そんな中、海野弦蔵は生き抜き生まれ故郷である江戸に帰還します。

 

 

江戸に敗走して来た彼らに、もはや京都見廻組という名はふさわしくなく、見廻組は狙撃隊へと改称されることになります。その一方で新政府軍に対して徹底抗戦を主張する隊士たちの離脱が相次ぎ、二月の江戸帰還時には400人近くいた隊士は、四月には200人程度にまで減っていました。

 

 

海野弦蔵(維新後に顕忠を名乗る)もこの間に見廻組を離れたものとみられ、『駿遠へ移住した徳川家臣団 第四編』(前田匡一郎)によれば狙撃隊を離脱した海野は彰義隊に参加し九番隊に属したといいます。ただ、見廻組で海野と同じ肝煎だった大塚霍之丞(かくのじょう)が頭取並の最高幹部であったのに対し、海野は同書以外に特に名前が残る史料もなく、名もなき一般隊士の一人であったものと思われます。本来ならば幹部に遇されてもおかしくなかったはずですが、このあたりの事情は謎というしかありません。

 

 

そして海野は悲劇の上野戦争をも生き延び、徳川家達を頼って静岡に移住して明治二年(1869)に同藩の沼津勤番組所属となります。ちなみに沼津勤番組に海野と同じく元彰義隊で、輪王寺宮の上野脱出を警護し、その後各地に潜伏したのち静岡にやって来たという渡辺愛四郎なる人物がおり、あるいは海野も同様の経緯であったのかも知れません。

 

 

翌明治三年(1870)に牧之原の開墾に従事しますが、3年後の明治六年(1973)に静岡を去り東京に戻ります。そして小石川区小日向武島町(こひなたたけじまちょう。現・文京区水道二丁目)に家を借りた海野は、どういうわけか数学者・石坂清長の門を叩くのです。その経緯についてはまったくの謎ですが、4年後の明治十年(1877)に石坂が出版した『代数学例題 巻上』に校訂担当者の一人として名を連ねています。あるいは以前から数学の才能があったのでしょうか。また同書下巻は「海野幸彰」なる人物が校訂を担当しており、改名したのかも知れません。

 

 

ちなみに石坂清長は原要義塾をいう私塾の校長であり、同塾は当時の本郷区元町二丁目(現・文京区本郷二丁目)にありました。維新後に藤田五郎と名を改めて警察官となっていた元新選組・斎藤一の家があった旧・本郷区真砂町(現・文京区本郷二丁目)とは一区画隔てているだけ、せいぜい200mほどしか離れていないというごく近所であったようです。無論、現実的にみればただの偶然だったのでしょうが、いろいろと想像してみたくなる話ではあります。

 

 

海野弦蔵の生涯でたどれるのはここまでです。残念ながら数学の道、教育の道で大成することはなかったようですが、「海野幸彰」が弦蔵のことであったなら、同姓同名の人物がどうやら富岡製糸場の経営に関わっていたらしい、というのが彼の後半生をたどる数少ない糸口ということになりましょうか。

 

 

 

※.『代数学例題巻 上』(明治十一年)巻末。 校訂者の一人に海野顕忠(弦蔵)の名がある。 

別手組の隊士となっていた海野弦蔵がいつ見廻組に編入されたのか、実ははっきりしないのですが、慶応元年(1865)十二月二十八日付で入隊した21名の名簿の中に「海野繕蔵」なる人物がいるので、おそらく筆記者の聞き取り間違いで、これが弦蔵のことだと思われます。別手組は前年の元治元年(1864)五月に隊士のうち200名が上洛し、御所の警備に当たっているので、あるいはそこから引き抜かれたのかも知れません。

 

 

「海野繕蔵」が弦蔵だとすれば、入隊時には平隊士にあたる「見廻組」であったのですが、慶応三年十月ないしは十一月に作成された幹部名簿には隊長格である肝煎の一人として名を連ねています。

 

 

そして慶応三年(1867)十一月十五日、河原町通蛸薬師下ルの醤油商・近江屋において坂本龍馬・中岡慎太郎の両者が暗殺される、世にいう近江屋事件が発生するのですが、事件当初、坂本・中岡の同志たちは無論、世間も犯行は新選組のしわざだと思っていました。局長の近藤勇ははっきりと否定したのですが、土佐藩の疑念は晴れることはありませんでした。

 

 

そして戊辰戦争終結後のある日、元新選組・御陵衛士の加納鷲雄によって江戸に潜伏していたという元新選組の大石鍬次郎が捕らえられ、大石は近江屋事件に関して拷問を伴った厳しい糾問を受けます。拷問に耐えきれなくなった大石は、近江屋事件は我々新選組が実行したのだと一旦認めてしまうのですが、のちに前言撤回して〝真犯人〟は見廻組であると暴露します。

 

 

兵部省口書

 

元一橋家来大石捨二郎倅

新選組 大石鍬二郎こと新吉 年三十三歳

 

同年十月ごろ土州藩坂本龍馬、石川清之助両人を暗殺の義、私どもの所業にはこれ無し。これは見廻組海野某、高橋某、今井信郎ほか一人にて暗殺いたし候由、勇よりたしかに承知仕り候。先達、薩藩加納伊豆太郎に召し捕られ候節、私ども暗殺に及び候段申し立て候得共、これは全くかの薩の拷問を逃れ候ためにて、実は前申し上げ候とおりに御座候。

 

 

大石は暗殺実行者のいの一番に「海野某」の名を挙げたのでした。ちなみに見廻組隊士の中で海野姓は弦蔵以外になく、これが海野弦蔵のことであることは明らかです。そしてこの大石の供述を受け、箱館戦争で降伏し捕虜となった今井信郎がのちに尋問を受けるわけですが、よく知られているように今井は自分と渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の6人が佐々木只三郎に率いられて近江屋に討ち入ったと証言しており、海野の参加を認めていません。

 

 

その今井の証言の中で〝真犯人〟とされる7人のうち、今井以外の6人はすべて鳥羽伏見の戦いで戦死しているため、今井は生き残っている「誰か」を庇うために戦死した同志の名前を代わりに使ったのではないかとする説がある、というか今現在もっとも有力な説なわけですが、生きている同志を庇うためだとすれば、海野の参加を認めていないこともまた戊辰戦争を生き抜いていた海野を庇ったと考えられないでしょうか。

 

 

そもそも大石鍬次郎は拷問に耐えかねて自白したのであり、ここで敢えて嘘をつく必要があったとは思えません。また見廻組に対して、あるいは海野弦蔵に対して何らかの利害関係があったとも思えず、むしろその証言の信頼性は今井の証言以上に高いと思えます。

 

 

ちなみに前回お伝えした、中川四明の遺作『怪傑岩倉入道』にある海野弦蔵の剣が「ヌーボー式というか、太刀の返りが美しく、特殊な曲線を描いた」という逸話ですが、実は近江屋事件の話の中に、敢えて「なお坂本殺しには関係ないが」と前置きを入れて書かれています。が、関係ないのならどうして近江屋事件に絡めて書いたのでしょう。そもそも小説などほとんど書いたことがなかった中川が最後の最後に「小説」を書き、その中に近江屋事件に関する記述を書き残したのは、実は海野が近江屋事件に参加していたのではないかと読者に匂わせたいがためだったのではないか、と考えてしまうのは僕の考えすぎでしょうか。

 

 

※.近江屋跡

 

 

 

 

 

ネットでいろいろと見ているうちに偶然見つけた写真なのですが・・・

 

 

 

 

 

なんだかものすごく違和感がありません?

 

 

 

 

(写真はお借りしました)

 

 

写真は60年代後半に活躍したイギリスのロックグループ・スモール・フェイセス(Small Faces)なんですが、左から二人目のイアン・マクレガン(Ian McLagan)さんのポーズがなんだかヘンですよね。

 

 

たまたま顔がカメラの真正面を向いているので、横向きの体に対して違和感を感じるのかも知れませんが、しかしよくよく見てみると腕の太さもちょっとヘンですね。上腕(二の腕)がものすごく太いのに、前腕がやたらと細いですね。合成なのかな?

 

 

・・・で、そんな腕のことを考えながらふと顔を見ると真正面を向いているんですよね。なんだかものすごくモヤモヤします。