またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…





暑くなる前にと、早めに散歩に出かけたのですが、既に身の危険を感じる暑さです。



たまに涼しい風が吹くのがせめてもの救い。お出かけ予定のみなさん、暑さ対策は万全に。



今日は病院に行く日だったので、散歩は近所をぐるっと回っただけなのですが、その道すがら。

 

 

歩いてると、上空にキーーーーーーーーンという鋭い飛行音が聞こえました。「ん?なんだ?」と思い見上げてみたらジェット機が1機飛んでいました。かなりの低空飛行で、塗装は灰色一色だったのでどう見ても軍用機です。ただ一瞬で建物の陰に隠れてしまったので丸レッドや☆などの国識別マークは確認出来ませんでした。

 

 

単座機のように見えましたが、不思議な事にベトナム戦争の頃のような、機体の下部に主翼がついている低翼機に見えました。見た瞬間はA-4スカイホークかなと思ったのですが、帰宅後ネットで調べてみたらスカイホークとは操縦席の位置が違います。スカイホークは機体の前の方に操縦席があるのですが、先ほど見た機体は真ん中あたりに操縦席がありました。

 

 

どう見ても時代遅れの機体にしか見えなかった(現用機のように細長くない)ので、まさかまさか中国か北朝鮮の領空侵犯かと思ったりしましたが、調べてみても該当しそうな機体は見当たりません。自衛隊のT-4練習機も操縦席は機体前部にあるし、いったいなんだったんだろう・・・。あと考えられそうなのは航空祭などで使用するレジェンド機体は試験飛行していたとか・・・なのかな?

 

 

 

 

先日、鳥羽伏見の戦い勃発の地を訪ねて来ました。

 

 

王政復古の大号令に応じ、朝廷への恭順の意思を示すため大坂に下っていた徳川慶喜は、薩摩藩の罪状を訴えるべく討薩表を掲げて再び京に入るべく兵を挙げます。旧幕府軍は総勢およそ一万五千人といわれ、軍勢は西の鳥羽街道と東の伏見街道の二手に分かれて京をめざしました。

 

 

そして慶応四年(1868)一月三日、鳥羽方面において鴨川にかかる小枝橋の関門を守っていた薩摩藩兵と北上して来た旧幕軍との間に「通せ」「通さぬ」の押し問答があった挙げ句、ついに戦端が開かれ、翌明治二年(1869)五月まで続く戊辰戦争の戦いの火蓋は切って落とされたのです。

 

 

その鳥羽の戦いの地は京都市営地下鉄烏丸線の終点竹田駅の西にあります。駅からは徒歩で30分ぐらいかかります。タクシーで行くのが無難でしょうが、このあたりは平安後期の鳥羽離宮の跡地でもあり、天皇陵墓をはじめ見るところも多いので時間があれば歩いてみるのも良いかも知れません。

 

 

鳥羽の戦いゆかりの地をマップに書き出してみました。

 

 

 

 

鳥羽伏見戦跡の碑が立っているのは小枝橋の近くの民家の入口の前になります。

 

 

 

 

ここは鴨川の土手際にあり、ちょっとした坂道になっていますが、この土手の盛り上がりは昭和以降の護岸工事によって造成されたものであり、幕末維新期には平坦な土地だったと思われます。

 

 

 

 

 

また、現在の小枝橋は上の写真で軽トラが上っている道をクランク状に曲がった先にありますが、当時の小枝橋はこの道の先につながっていました。下の写真は対岸から見たところですが、写真中央の樹木とその右に見える日本家屋の間ぐらいに当時の小枝橋がかかっていたものと思われます。江戸時代の小枝橋は土を塗り固めた土橋だったそうです。

 

 

 

 

 

先程の石碑の立っている場所から東側を見ると、道の先に森が見えますが、この森は城南宮という神社で、白河上皇が院政を行なった鳥羽離宮の鎮守社です。そして鳥羽の戦いにおいては薩摩藩本府五番隊の本陣となりました。

 

 

 

 

 

そして、石碑の場所の南側が旧幕軍と薩摩藩とで押し問答があったとされる関門があったとされる場所です。具体的な場所は特定出来ていないようですが、薩摩藩側の記録に旧幕軍の使者が赤池の本陣(約500m南)に戻って行ったという表現があることから、小枝橋のすぐ近くに関門があったのだろうと推測されます。下の写真は関門があったであろう場所を南側から見たものです。

 

 

 

 

その赤池には旧幕軍先鋒の京都見廻組約400人が幕府大目付・滝川播磨守具挙(ともたか)を守って布陣していました。戦端が開かれると見廻組は薩摩軍の集中砲火を受け、ほとんど一方的にやられてしまいます。下の写真が赤池の地で、その名のとおり、平安時代には水の色が赤い池があったそうです。それにまつわる伝説もあるようですが、詳しくは下の写真の看板をご覧下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

薩摩藩五番隊の本陣があった城南宮の大鳥居は戦闘が行なわれた西側を向いています。この大鳥居は文久元年に、その前に立つ常夜灯は文政八年に建てられたものなので、当時すでにこの場所に立っていたことになります。

 

 

 

 

 

鳥羽離宮跡公園には鳥羽の戦場跡であることを示す立派な石碑が立っています。明治四十五年に貴族院議員だった小牧昌業(元薩摩藩士)が建てたものですが、このような石碑は碑文の上部にたとえば「鳥羽戦跡之碑」などと大きく彫られているものですが、この石碑にはそうしたものがありません。京都市のホームページでは「鳥羽伏見戦跡碑」と紹介されています。

 

 

 

 

 

同じ公園内には鳥羽伏見の戦い勃発の地であることを紹介する石碑も立っているのですが、周りに植物を植えられてしまって、下の方が読めません。残念!

 

 

 

 

 

歩いているうちに、「ああ、あそこにも行かないと」「あそこの写真撮ってなかった」と思い返してUターンしたり、久しぶりに歩き回りました。そして寄る年波(笑)、まだちょっと疲れが残ってます・・・。

 

 

 

 

 

今日は朝早く起きて少し遠出をして来ました。行き先は・・・

 

 

 

 

 

 

鳥羽です。鳥羽伏見の戦い勃発の地を訪ねて来ました。お昼近くまで歩き回って来たので、とっても疲れました。足は思ったほど痛まなかったのですが、体が疲れました。詳しいレポートを書きたいのですが、今日はちょっとしんどいのでやめておきます。

 

 

今日の京都は朝のうちは曇り空だったこともあって、結構過ごしやすかったです。鳥羽伏見の戦い勃発の地は最寄りの京都市営地下鉄竹田駅から徒歩で30分近くもありますが、行きにはセミが鳴いていたのが帰りのお昼頃にはセミの声はほとんど聞こえず、鴨川の近くだったこともあってか、鈴虫の鳴き声が聞こえていました。そろそろ季節の変わり目かな・・・と思ったのですが、山科に戻って来たらやっぱりセミが元気に鳴いていました。やはり秋はまだ先のようですね。

 

 

 

一応、毎日散歩の途中でお地蔵さんに手を合わせ、ウクライナとガザの戦争が一日も早く終わるように、子供たちがこれ以上犠牲になりませんようにと拝んでいるんですけど、なかなか収束しませんね。それでも拝み続けるぐらいしか僕には出来ませんけど。

 

 

今年は五山送り火は見に行きませんでした。KBS京都テレビで中継やっているので、それを見てます。関東は台風が直撃しているようですが、みなさん大丈夫でしょうか。京都は薄曇りで8月としては過ごしやすい一日でした。このまま涼しくなって・・・・はくれないだろうなぁ。

 

 

(画像はお借りしました)

 

 

 

 

 

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散歩道の途中に老舗のうなぎ茶漬けの店があります。お盆というのに今日も営業されていたみたいで、調理場でうなぎをさばいているのが見えました。・・・暑いからか、戸が開けっ放しだったのです。

 

 

で、驚いたのがうなぎです。腹を割かれて真っ二つになって、内蔵も取り除かれてしまっているのに、手で抑えてないとビュンビュン動くんですよね。ヘビと同じなんでしょうか。さすがに背骨をとったら動かなくなったような気がする・・・。

 

 

うなぎ茶漬け、一度は食べてみたいと思うのですが、やっぱりああした老舗って店頭に「何円」とか貼り出したりしてないんですね。しかも、見ると品物は一種類のみ。結構大きなサイズなので、まあ、お高いんでしょうなぁ。

 

 

 

夢で故人と逢ったことある?

 

 

 

そうか、今日はお盆だったのか・・・。夢で故人とあったことはありますが、それよりも昨日の夜、そういう意味では縁起が悪い夢を見てしまいました。夢の中で余命宣告されてしまったのです。

 

 

夢の中で何度も行ったことがある町に遊びに行って、知り合いの兄弟の家に一週間泊めてもらって、さあ今日は帰る日だという時に、その知り合いの兄弟に「またしち(仮)君は来年の10月までの命だから、ここに来るのはもう最後だね」と言われ、ああ、そうだった。僕は来年の10月に死ぬんだった。それじゃ最後にお世話になった人たちに挨拶しておこう・・・と思ったのですが、もう夜だったのでどこの家も灯りが消えていた・・・という夢でした。

 

 

縁起でもない夢ですが、でもなぜか楽しい夢でした。あとは正夢にならないように祈るばかりです。

 

 

 

 

 

 

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子供の頃の出来事を思い出したので書き留めておきます。

 

 

たぶん昭和四十五年か四十六年か、その頃の出来事だったと思うのですが、その日、幼児だった僕は、たぶん家の近所の公園かどこかで友だちと遊んでいたんだと思います。ちなみに当時は兵庫県の大阪よりの某市に住んでいました。某市っていうか、まあ伊丹市です。

 

 

そこに見たこともない中年の男性がやって来て、突然「お金をあげる」と言うのです。幼いながらも不信感を持って何か問い正したように思いますが、中年男性は「大丈夫だから」と言って〝お金〟を手渡されました。

 

 

しかし、その〝お金〟は少なくとも日本のお金とは似ても似つかないものでした。そもそも紙質が紙幣のそれではなく、写真や栞(しおり)のような白く固い紙で出来ていて、中央部分にカラーで外国の建造物のようなもの(オベリスクだったかも)の絵が描かれていました。

 

 

そして何百万だか何千万だか、あるいは億だか、とにかく1のあとに0がたっくさんついていて、その前に¥でも$でもない、漢字の「牟」に似た単位記号がつけられていて、あと表だったか裏だったか思い出せないのですが、どこかにダビデの星が描かれていました。

 

 

なんでこんなものをくれるのか聞いたら、「本当は良い行ないをした時にもらえるものなんだけど、今日はみんなと出会えた記念にあげるんだよ」みたいなことを言っていました。結局もらって帰って親に見せ、今日起きた出来事をありのままを説明したところ、「こんなもの、もらってきちゃダメだ。もう二度とその人と会うんじゃない」と叱られました。

 

 

・・・たしかにそのとおりだと思います。記憶がよみがえって今考えてみると、これ、絶対に新興宗教の勧誘か何かですよね。しかも、「お金をあげる」と子供に声をかけるなんて手段、かなり悪質だと思います。叱られたあと、兄妹と一緒に使っていた子供部屋で、もらった〝お金〟を見つめながら悲しい気持ちになっていたことを思い出しました。

 

 

余談ながら、これを書き込んでいるうちに子供の頃に記憶が更によみがえってきました。その頃、僕の家族が住んでいたのは伊丹空港のすぐ目の前で、家の外に出て目の前の道路をちょっと行ったら滑走路が見えていました。その道路沿いに用水路があったのですが、深い上にものすごく流れが早く、万が一幼児が落ちたりしたら危ないから気をつけなきゃダメだと大人たちから繰り返し言われていました。

 

 

 

今日も午前中に東山を歩いて来ましたが、日差しは強かったものの木陰などに入ると山からの吹き下ろしの風が涼しくて気持ちよかったです。暑いことには変わりはないのですが、酷暑だった先週と比べるとだいぶ過ごしやすい一日でした。

 

 

散歩中にお年寄りの方とお話する機会があったので、昔のお話なんかを聞いてみたのですが、まあなんとも話が止まらない止まらない(笑)。カネボウの工場があった話とか、東山にあった松下幸之助の屋敷をカネボウの会長(?)さんが買い取って、買い取った時に「庭はそのままにする」という約束だったのに一年もしないうちに作り変えてしまったとか、あとご自身の若い頃のお話もたっぷりと(笑)。

 

 

でも、どうやら今はお一人で暮らしておられるみたいで、たぶんしゃべる相手がいなくて寂しかったんだろうなあ。

この話は数年前(といっても埼玉に住んでいた頃なので5年以上前だと思います)に中身だけメモしておいたもので、何の本に書いてあったのか、いつ頃の話だったかを記録し忘れてしまったのでブログ記事にするのを控えていたものです。・・・おそらく『藤岡屋日記』だったと思うので江戸時代後期の話だとは思うのですが。

 

 

伊予国(現在の愛媛県)松山に桜井磯次郎という侍がいたそうです。タイトルどおり、その磯次郎さんが巨人だったという話です。

 

 

伊予松山に巨人あり。曰く桜井磯二郎。身長八尺三寸、手掌一尺二寸、足掌一尺五寸、足衣十七文半を用う。これを秤るに三十九貫五百目を得たり。一日よく三十七、八里を行く。力四十人に敵う。年裁二十四。

 

 

これを現在の数値に当てはめてみると、身長は2.6m、掌の大きさは36cm、足の大きさが45cmで足袋の寸法が42cm、体重は148kgもあったことになります。そして一日でだいたい145から150km歩くことが出来、力は40人に匹敵するというのです。

 

 

江戸時代のはなしですし、正確に計測されたものかどうかは不明で、ただの噂話の可能性もありますが、調べてみると案外そうでもないようです。たとえば身長2.6m、体重148kgという数値は、現在存命中の人物で世界一背が高いとされるスルタン・キョセン氏(トルコ)の身長2.5mで体重155kgという数値とそれほど差がありません。また「疑う余地のない医学的な記録がある」中で史上もっとも背が高い人物とされたロバート・ワドロー氏(米国)は身長2.7mで体重222kgだったそうで、桜井磯次郎が彼ら同様に巨人症だったと仮定すれば、その体格は十分「常識の範疇」に入るものと思われます。

 

 

また、一日に145キロから150キロ近く歩けるという話ですが、これは松山からだと香川県の丸亀市か高松市まで。京都からだと名古屋市を越えて岐阜まで一日で歩いてしまう計算になります。それはさすがにあり得ないだろうと思いましたが、たとえばの話、ジョギングは時速7km/h前後といわれており、一日中ジョギングし続けたと仮定すると168kmも走破出来る計算になります。

 

 

桜井磯次郎も実際に一日中歩いたのではなく、常識的な距離を歩いた数値を基準にして一日歩いた場合を見込み計算したものだと考えれば、実はこれも常識的な数値であるといえます。

 

 

ちなみにこの磯次郎さん、なかなかの美丈夫だったそうです。また同じ頃、松山には他にも小玉文太という七尺五寸強(2.3m以上)の大男がいましたが、自力歩行がかなわず三十何歳かで亡くなったそうで、この話は「すなわち知る。松山はよく巨人を産む也」で〆られています。

 

 

戦後社会が「当たり前」の我々は忘れがちかも知れませんが、昔は地域による食文化の違い、あるいは貧富の差、または身分の差などによる体格の偏りはあったろうと思われます。自分の実体験としても昔一緒に働いていたベトナム人のうち、南部出身の女性は日本人と変わらない体格だったのに対し、北部出身の女性は全体的に150cm前後の小柄な人が多かったということがありました。

 

 

あるいは幕末の薩摩藩士が西郷隆盛、大久保利通をはじめ170cmを超える長身の人物が多かったことは、薩摩藩が他藩では幕府を憚って余り用いられなかった銃の訓練を、逆に積極的に行なっていたことと関連あるのかも知れません。銃の訓練として鳥撃ちが盛んに行われていたようですが、仕留めた鳥は当然食べたはずで、実は幕末期の薩摩藩士は当時の日本人としては例外的に動物性タンパク質を豊富に接種していた可能性があります。

 

 

「江戸時代の平均身長は今よりも低かった」というのは事実なのでしょうが、だからといって当時の人がみんな現代人より小柄だったというわけではなく、大きかった人もいれば小さかった人もいた、ということは忘れないでおきたいと思います。