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松本さんの絵第47 ◎tera3 とリンクできることになりました 


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 図100


 学生だったころ、僕は渋谷の飯場で数日のあいだ寝食、仕事をともにした日雇い労働者をおもいだします。中国戦線で軍曹をしていたという。日本刀で何人も切ったという恐ろしい話をしてくれたが、歯は欠け、どう見ても貧相で風采のあがらないボロボロの爺さんだった。かって帝国陸軍の軍曹だったから、当時は威張り散らして、みんなに怖れられて,それなりに威厳もあったに違いない。しかし、当日は、飯場を仕切っている、やくざな親方に小銭をピンはねされて一、二万のしがない給料をもらっての帰り道だった。

コーヒーでもと、誘ったが、「いらない」と断られた。雑踏にすばやく消えていった男、亡き人の恨みを背負いながら、誰も信じないで連綿と生きていくのだろうか。仕事をしていたときは、ずいぶん愛そうがよかったのに、その声には凄みがあった、さみしい人だと、がっかりしたのを思い出します。


 ぼくは戦争をしらない。父は前線に行く日には、から元気でも勇んで敵に向かって行ったと言っていた。誰の命令?戦争が終わって、俺は知らないよと、伍長も、軍曹も、将校もみんなだまって、隠れるようにしていたのが、その後はどうなったのだろうか。 戦後であった伍長は、魚屋のおっさんだった。軍曹は闇商売で張り切っていた。人物ともに尊敬された将校は、農家の、ただの百姓だったと父は話していた。


 すでに、仕事から解放されたぼくは、すき勝手な身分です。.30年のあいだ報道の職場にいましたが、在職死亡の数は同業他社様に負けず劣らずでした。かくして、30、40、50代の若さにもかかわらず、心臓病、そのほかの病気、自殺で亡くなった仲間の数は半端ではありません。日本人の寿命が70,80、90代が当たり前のご時勢なのに、若くして死んでしまった仲間をただ、呆然とながめるしかなかった。何かがおかしい。
 

 経済優先のいまも、僕らは相変わらず張り切っている。誰を責めることもできない。自分を守れるのは自分しかいない。そういうことです。ことしも11月の創立記念日がやってきます。汐留の本社で会いたいものです。ところで社員バッジをなくしてしまい、再発行してもらい手元に届きました。少年のころ、褒美をもらったような、うれしい気分です。さてリンクできる許可をもらった  Coworker  を紹介します。


cf, 関連することわざ



we never meet without a parting 逢うは別れの始めなり




tera3 とリンクできることになりました。よろしくお願いします。



紀州梅干し専門店 福梅本舗

松本さんの絵 第46 ◎ サンドラは学校になじむようにがんばっていますが 



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図99
                2009年9月16日

Hello fani

Wellcome to Ciba , Long time no seeing

How are you and your Family ?

you can read my message ( 松本さんの絵 第8 )I wrote when

the slope of a mountain near Benidorm South Spain was strucked

by a natural calamity of fire in this winter .

May god bless you and children having great time in Chiba .



ファニーさん ( Fani en Japon ) ようこそ千葉に、ひさしぶりです。

みなさん、いかがお過ごしですか。

 第8話を読んでください。ベニドームの山火事を心配してました。千葉で良いことがありますよう願います。



cf. readers


Fani en Japon  にスペインの写真あります。そのなかのAmigosをクリックするといろいろと見れます。

EU blog です。







ファニーより

Hello Matsumoto san!
im trying to adapt to japan, but differences are too much big,but im trying....sometimes im very sad and missed,but maybe i never can get happiness i think.
The kids are very genki, specially hiroki. Sandra is trying to adapt to japanese school, but is hard for her, specially for eat the japanese food.
Im sorry, actually im sad and pesimist about my life in japan, probably i will return to spain after some months...or days...because i have many problems here and in my relation.
I only HOPE i can make happiness here.
Thank u for t
alk about me here, and hello to all your readers!! u can see some pics of me in my blog www.fani73.com even is in spanish u can see some pics.thanks!



松本さん こんにちは

日本になれるようにしていますが、習慣の違いが多すぎます。それでもがんばっていますが、、、ときどき失敗するし,たいへん嘆いています

 たぶん絶対にうまくいかないと思ってます。二人の子供は元気です、ヒロキ はとくに元気です。サンドラは学校になじむようにがんばっていますが、彼女にはきつい、とくに日本食は馴染めないです。

実のところ、日本での生活は残念ながら嘆いてばかりで、悲観主義になっています。たぶん数ヶ月、数日のうちに、スペインに帰ろうと思います。

ここでは、とりまきの人たちとの関係に多くの問題があります。

ただ一つの望みは、日本で幸せに過ごすことなのに!

わたしのぐちを聞いていただいた皆さん、ありがとうございます。


タカシマヤファッションモール


  1. Hello Fani
    I lived in Abiko city nineteen years ago, When i see pictures of Sakura, I remembered there so dear, Sakura is located not so far from Abiko.it takes 1 hours by car on the road of Root16 . There is Tega numa (marsh) near Abiko,the other side Sakura has Innba numa .both look as like as same view.
    Amigo

ファニーさん




 19年前千葉の我孫子に住んでましたから、佐倉の景色を目にすると、ずいぶんと懐かしくなります。佐倉は16号線を車で走ると我孫子から一時間で行けます。我孫子には手賀沼があり、佐倉には印旛沼があるので同じような風景に見えます。友達へ 




  1. Hi Mat! im glad that you could remember there by my pics. It is so nice place right?!.I want to return there again, the place has very special keshiki,i could feel a lot of peace and relax enjoying the nature there, and De Liefde is so nice!, we spent beautiful day there.I did read that the best season to go there is in april, when there are a lot of tulips planted, so i hope next april i can see them.
    I want to go there more times for fishing, and i could see in the map there are some old samurai houses, so i want to see them!.
    Thanks for comment! mata ne!



ファニーより     2009年9月15日
 
 マット、ブログの写真で千葉を思い出してもらったようで嬉しいです。ほんとうに、そんなに、いいところですか?
千葉には、また戻りたい。景色はたいへん良かったですし、平和な気分になって、自然を楽しめました。そこの生活は楽しいです。楽しい日々を過ごせました。なにかで読みましたが、行くなら4月がベストシーズンらしい、来年チューリップが満開になる4月に見にいきたいです。
印旛沼へ、もっと魚釣りに行きたいものです。地図では武家屋敷が見られますし、そこも見たいですね。コメントに書き込みありがとう。また!





松本さんの絵 第45 ◎ 奥穂高、ジャンダルムの岩場で遭難している。ここは登山者が 



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 図98     9月11日



 夕方のニュースで穂高の遭難事故を見ました。奥穂高、ジャンダルムの岩場で遭難している。ここは登山者が墜落して死亡したり、(図80 )動けなくなってしまう危険地帯です。救助へりが岩壁に接触して墜落炎上、岩が黒く焼けている。

 新穂高温泉から奥穂高に登るばあいは、公営駐車場に車を止めて、ケーブル駅まで歩きます。ケーブルに乗らず、その先の林道を進みます。林道の終点から避難小屋を経て白出沢を登ります。僕はこのルートを歩かないとおもう。理由は白出沢は道が悪く、浮き石 が多く、前を歩く人が石を蹴飛ばすと、こちらに落ちてくるような危険な急斜面です。ヘルメットをしていても安全とは思えないです。ガレ場を過ぎると奥穂高小屋までは岩場を登る事になります。墜落したヘリは、3000米を超す岩壁に当って、浮力を失いながら白出沢に落ちて炎上しています。機体は沢の岩を黒く汚していると思うとがっかりします。小屋に泊り、翌朝ジャンダルムを越えて西穂高に行くルートがありますが、体力と経験がないと命を落とすかもしれないです。





 夏山シーズンは, 付近は、満車になり有料駐車場に移動するしかないです。7月にきたときは夏休みの前で鍋平公営駐車場に一台も車がなかった、あまり人の気配がないので、気味が悪かった。車をおりて高台に登ると地面が平らでヘリポートになっていた。きょうの遭難では、鍋平ヘリポートが使われているとのこと、あの場所かと、記憶がよみがえる。周辺は混雑しているにちがいない、7月のときは右手の新穂高大橋を渡り、中尾温泉に出て、昼寝をしました。ここ鍋平駐車場はなぜか車を止めたくなかったのを思い出します。



cf, 関連することわざ



Prevention is better than cure 転ばぬ先の杖

Too much is as bad as too little 過ぎたるは及ばざるごとし






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松本さんの絵 第44 ◎ 父はピカソを模写したり、 こういう画風が好きだった。 

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  図90           1954年 10月

 

父によるピカソの模写。こういう画風が好きだった。




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図91   1954年   弘画タカシマヤファッションモール  



 ピカソによる奇妙な造形物も気に入って、スケッチした。 


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図92  父画

 

  どこかでスケッチしたのだろうか。



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図93     1955年

     

   東山区泉涌寺南谷


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図94  南谷


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図95  南谷



松本さんの絵 第43 ◎ 自転車ツーリングをしてるようで就寝中のようでした 



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 図89         2009年9月11日



 加茂川 は 送り火の妙法(第39 図83 )が見えるあたりでは高野川と呼び名が変わります。ここは、ホリディイン・ホテルやショッピングモールのQANATが目の前なので都心ですが、公園のような感じで、川に沿って遊歩道があります。春は、土手に沿って、桜の古木が1キロほど続き、桜が満開になると、シートを敷いて花見を楽しむ姿を見ます。

 きょうは、早朝散歩していると珍しく小型テントがありました。二、三人で自転車ツーリングをしてるようで就寝中のようでした。なんとなく楽しそうな旅行をしているようで、いいなあ、うらやましいです。せんじつ朽木村で虫に噛まれたばかりなので、(第40 )心配ですが、今年は最後の新穂高温泉第34 図75 )に行く予定です。10月中旬のキャンプ場が閉まる前に行きます。今年は登山靴も買ったしトレッキングシューズも買ったけれど雨と悪天候の夏だったので、夏を楽しめなかった。秋は気候が安定しているので、残暑を期待しています。



cf、 関連することわざ

Every dog has his day   犬も歩けば棒にあたる

After a rain comes a calm   雨降って地かたまる






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松本さんの絵 第42 ◎ あともう少し、もう少し、と言って時間を惜しんで描いた作品 




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 図86      

 

 無言館で、父とおなじ大正3年うまれの戦没画学生の作品に目がとまりました。イラストは、画学生の作品をメージで復元して描いたものです。彼の親しい人物を油絵具に託して描き残し、この世を去ってしまった若者を思いながら、しんみりとしてしまった。 父は、おなじ時期に気楽な絵(第41 )を描いてます。南京の戦闘で死に直面したけれども、帰国してほっとしているのかもしれない 一方、画学生の作品は、赤紙(召集令)が来てから、残された数日を惜しんで描いています。生きて戻れるのか、妻、それとも恋人、家族、親、兄弟姉妹の別れが迫ってくる。あともう少し、もう少し、と言って時間を惜しんで描いた作品ばかりだそうです。絵からそれが無言で伝わります。そして、そのすべての作品は彼らの絶筆となってしまった。



 若者は学徒動員で出兵したため、中国戦線へ進軍した時期が父よりも遅く中国戦線は混乱していた時期です。少しの遅れが運命を分けた感じです。画学生は帰国することなく、戦線から直接、ニューギニヤに転戦されたとあります。 父は一年の戦地徴用のあと帰国して、軍需工場勤務だったために(待機兵のまま終戦を迎えた)日米開戦のあとも徴用されなかった。画学生は1942年、ニューギニヤで29才の命を落とされたと記録されている。 無言館を訪れた人は言葉をなくしてしまうから、そのように名付けたと思う。あまり話し声が聞こえないけれど、照明を下げた館内に大勢の人たちが鑑賞していました。決して重苦しい雰囲気ではありませんが、静かな空間でした。



 第二次大戦で将来の日本を背負う若者がほとんど無駄死にしてまったような気がする、ぼくの勝手な思い違いであってほしいけれど。あふれる才能の持ち主がなくなり、時にはゴミかボロのように扱われて亡くなった様な気がする。絵の世界は遺作を鑑賞することでわかりやすいが、文化は経済、司法、行政とあらゆる分野にまたがり、日本の文化はことごとく深い傷を負ったと思う。 父の大学の仲間は半数ちかくが戦死している。

 市民、軍人を含めて300万人以上が亡くなったといわれるこの戦争で、幕末から明治にかけて世界の一等国をめざしてきた市民の心意気はすっかり色あせてしまったのではないだろうか。母方の父、僕の祖父は死ぬる間際に「 孫のおまえにハッキリ言っておくが、日本を日本列島などと呼ばしてはいかん、ちかじか県の国会議員に抗議するつもりだ」といって、その後 亡くなった。 当時の首相、田中角栄を批判したのだろうか。中曽根さんは日本をたとえて不沈空母などと言っているが、明治生まれで海軍の軍人だった祖父が生きていたら、どう言って怒っただろうか。(合掌)




cf. 戦没画学生の常設(多くの画学生の作品)展示は無言館にて。





  「無言館」ガイド
住所:長野県上田市大字古安曽山王山3462
電話:0268-37-1650
鑑賞料・・・随意制(一人200円から500円) 出館の際に納める。
開館時間:10時~17時入館まで(年中無休)











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松本さんの絵  第41 ◎ アメリカのマンガや映画ではポパイが人気者だったから、父は






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図85     1941年3月


 父は支那事変に従軍して中国から帰国したあと2年間大学に戻り卒業すると、精密機器の会社に勤めていた。こんな、ややこしい時代だが、アメリカのマンガや映画ではポパイが人気者だったから、父はこんな絵を書いている。この絵を見て市民の目線は格別アメリカを憎んでいたと思えないのです。政策主導、国民不在の時代にちがいない。日本は、この年の12月に真珠湾攻撃をしたとは驚いてしまう。この年は、どんな年?

 中国人に育てられた日本人のスター李香蘭が有楽町の日劇に出演して評判になった。日本ではスパイ容疑で、ゾルゲ、尾崎秀実が逮捕された。弟の尾崎秀樹は反戦・平和のために死を賭した尾崎の家族との行くすえと、娘の伸びゆく姿を思い描いた書 「愛情はふる星のごとく」を出版している。父はこの本を買って読んだ。

 日ソ中立条約を結んでいる。日独伊三国軍事同盟に加盟した年。フインランド、この国は歴史的にロシヤの覇権主義に苦しんできた小国ゆえに当時侵略してきたナチスドイツに武器の供与を受けて、ソ連国境の軍備を強化した。一方で、ドイツはフインランド国境からソ連に侵攻、フインランドはドイツを支援した結果、第二次世界大戦の敗戦国になってしまった。 フィンランドが第二次世界大戦の敗戦国として日本と共通項があったと思うと、なにか妙な親近感がある。しかし、敗戦国といえ、他国を侵略して領土拡大を目論んだ戦前の日本とは全く異なる。ヨーロッパのような陸続きの地域では、大国に囲まれた国が独立を維持するために、あらゆる知恵を働かせて生き延びるしかなかったのではないだろうか。森と湖の国フインランド、近年、携帯のノキアで知られている。



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松本さんの絵 第40 ◎ 金網の破れ目を利用して物々交換をしている市民を見ていた父


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 図84

        2009年8月29日


 大原の先、安曇川にそって一時間ほど車で走ると、朽木村のキャンプ場に到着した。小雨の降る一日だったが、スプリングで開くテントの雨漏りの具合をたしかめるために一泊することにした。500円を払い木陰にテントを設営した。夏休みも終わったのか、車は5台ほどで子供も少ない。夕方になると二台になってしまった。やがて名古屋ナンバーの大型バイクがが二台やってきてテントが一つ増えました。ここまで来ると、京都市内よりも涼しく、テントのなかでワインを飲んで、すっかり緊張が解けました。まだ明るいのでシートを出して寝ころがっていると、いい風が吹いて心地よく、川の音もなかなか良いものです。空を見ていると、チクッと左の耳たぶが痛み、起きあがった。かゆい、爪でかいた。手が汚れていたのか、ばい菌が入ったらしく数十分もするうちに赤く腫れて来た。首筋も熱っぽくなった。

 こんな事は始めてだったが、一晩明かすのはやめにしてテントを撤収、急いで帰宅した。風邪薬の残りの抗生剤を飲んで、氷で耳を冷やし、塗り薬をつけた。はれが引いたので安心して就寝したが、翌朝になると熱っぽく、首筋と耳の付近が痛む。休日診療の病院に行くことにして、泉涌寺の第一日本赤十字病院に電話したら、いつでも来てくださいとのことでした。救急の入り口があり、受付をすます。なにやら事故でかなりの出血した負傷者や、切迫流産を心配するひと、豚インフルエンザの疑いのあるひとなどで、混雑している。耳たぶが腫れて痛みがあるが、どうもこんな程度の傷では肩身がせまくなった。インフルエンザをうつされるほうが心配になり、100円でマスクを購入した。

 小さいころに名古屋に転居したから、これまで日赤で診察を受けたことがありません。50数年が経過して、この病院に来たことになります。長いすに座って待っている時に、今は亡き父を思い出した。(第1話 ) 戦後の1950年代、ここの病院は進駐軍が宿舎として利用していた場所でした。父は仕事の帰りに泉涌寺で市電を下りると、時々、日赤へ寄って帰宅することがあった。金網越しにキャンプの住人である兵隊と英語で話をするのが楽しみだった。金網の破れ目を利用して物々交換をしている市民を見ていた父は、骨董品やら、役立たないものを持っていっては食べものと交換したこと。そしてビクター君と仲良くなった事など。(第2話 )今は建物は増築してあるけれど、外観はあまり変わらず、古いままです。建物の最上階の赤い十のマークは、子供のころの記憶のとおりの場所にあります。僕のうつろな記憶では、青い空、白い雲、緑の芝生に金網、白い上着を着た看護婦兵と仲良く手をつないで歩くカーキ色の兵隊服、月輪寺(歴代天皇の菩提寺)の参道はそんなカップルのデートコースでした。彼らのかぶる帽子は、三角巾で折った様なものでした。いまでもマクドナルドの従業員が頭につけていますが、おなじ型です








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松本さんの絵第39 ◎16日は大文字に送り火が点火されます。当日は作業関係者のみ





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図82

           2009年8月13日

 

 しあさって16日は大文字に送り火が点火されます。当日は作業関係者のみで入山禁止になります。きょうは自由に登れました。冬に登ったときの寂しさはなく(第8話)、 白い雲、青い空、緑なす山々に夏を感じます。階段を上り詰めたところが漢字の大の中心で” 井 ”の型の石組みがあります。ここに弘法大師の祠 があり、線香の煙が漂っていました。” 二 ”の型の石組みは山腹にならべて巨大な大の文字となっています。16日の当日は赤松の薪を石組みに乗せます。夕方八時の直前に灯油をかけて一斉に点火します。地元消防団が石組ごとに散水器を背負って待機します。

大文字焼きのあと石組に残った炭を持って帰ると御利益があるそうですが。昨年は、16日の午前中は、入山禁止の看板を横目にして出入り自由でした。夕方は入山できないと思います。銀閣寺山門で松の木を500円で買い、墨筆で家内安全、安産祈願など願い事と名前を書いてだしますと

山頂に運んで送り火で焼いてもらえます。赤松の薪や、松の木の札は、そうとうな重量なので、ケーブルカーで祠のそばまで引き揚げます。大文字がおわると、京都の夏空は秋の気配がしてきます。日中はまだ、盆地特有の暑さがありますが、夜は涼しい風が吹くようになります。セミの声もやがて小さくなります。




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図83


2009年 8月 16日(日)

  

 送り火の当日は、娘と二人で近くの観賞スポットに行きました。賀茂川に架かる橋はどこも混雑しています。きょうは月が出ない夜で、街は暗闇でした。夜8時に大文字に点火されました。左京図書館の3階の階段にあがると、東の空に真っ赤な大の文字が輝きました。ここからは、画面のように、すべての送り火を見ることはできません。10分ほど眺めてから、階段を下りて、ホリデーインの隣のショピングモールの屋上駐車場に行きました。30年もすんでいるのに、ここが、多くの送り火が見れる場所とは知りませんでした。モールの買い物客か、近所の人々ですから、それほど混雑してません。金閣寺のそばの右大文字が西に小さく斜め横になって見えました。船形は西賀茂地区にあり、ここからは北西にくっきり見えます。妙法もよく見えました。そのあたりは上賀茂地区にあります。距離が近いためか、妙と法がずいぶん離れて見えます。鳥居は嵯峨、嵐山方面なので、あいにく屋上からは見えませんでした。来年は、早めに来て、ゆっくり見ようと思った。ここなら市内をあちこちゆかなくて済むので助かります。





松本さんの絵第38 ◎明日以降晴れてたとしても登らないことにしました。 



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 図79

              2009年8月2日

  

天気がよければ焼岳に登る予定でした。前々日から栃尾温泉で待機して、晴れるのを待ちましたが、あいにく連日の大雨で道が濡れて、山頂の岩場は滑るはず。明日以降晴れてたとしても登らないことにしました。

8月1日は、中尾温泉から入山口まで車で入れたので、中尾ルートで登ることにしました。しばらくは林道を歩き、空は時々晴れるので期待しましたがやはり道が悪すぎました。林道の終点で、登山口の表示が有り、その先は車の入れない登山道です。ここからは山頂の岩山はまだ見えませんが噴煙による硫黄臭が漂っています。岩山が見えればあと2時間もかかりません。このまま戻るのも諦めきれず、周囲に生えているフキを土産に持って帰る事にしました。川の水も増水して、渡るときに靴がすっかり濡れました。気の済むまでフキを束ねて袋に入れると一気に下りました。

車で中尾温泉を通過、さきほどのフキの生えていた薄暗い樹林帯とはうってかわり、洒落た山小屋や温泉旅館の窓越しに明かりが灯り、外には浴衣姿の客が付近を散策していました。

 そういう雰囲気もわるくはないですが、僕はやはり荒神の湯にはいっているほうが気楽でいいです。合掌の森キャンプ場のテントで明かすつもりでしたが、雨が激しくテントは無理そうなので、車の中で明かす事にしました。そうなるとやはり勝手を知った荒神の湯の駐車場になります(第34話 図75)。

久しぶりに深夜の露天風呂に入りました。月が見えず、墨を流したような夜空の下で、露天風呂の照明が湯を照らして、趣があります。朝起きて湯を沸かしていると隣の車の人が話しかけてきました。きのう僕が登ったルートを教えると、車の入る距離だけ時間が短縮できるのですっかり気に入った様子で、雨の中を登るそうです。僕は帰り支度のあと出発、平湯に出たときに桃10個のケースを買い土産にしました。悪天候でつまらない旅になりました。




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図81



  もちかえったフキをさっっそく料理した。熱湯であく抜きして、皮と葉を除いて、適当な長さに揃えて切った。味付けは醤油あじで煮ることに。ハナカツオ、醤油、だしの素、みりん、煮汁が少しのこるまで煮る。味見したら、少し苦みがあって、香りが強い。スプリングのようにねじれた茎など見ると野生的で、栽培したフキの茎とはずいぶん違う。フキをつまみながら焼岳の山麓を思い出していた。ウイスキーの水割りにフキの茎がよくあいます。気分良く飲んでいたとき、あることに気がついた。そういえば、たしかに看板があった。



「とるのは写真、のこすのは思い出、もちかえるのはゴミ、、」



 そのときはなかなかうまい表現だと、感心していた。ゴミは捨てなかったし、写真もたくさんとった、思い出も十分できた、、。でも何か変な予感が、

注意書きの行間を読んでなかった。「とるのは写真のみ、動、植物はいっさい取ってはいけない」






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