面白いこと言ってる人がいますよ、との情報で、

あまり好きでもないつぶやき界隈に目を通しました。

 

ああそういうことね。と。

 

どうやら、また、我こそは秘密結社八咫烏のお偉いさん(えっへん)みたいな頭壊れたことを言い出してるのがいるらしいです。

 

なんだか自分を北朝の八咫烏だとか言いつつ、現皇室を朝鮮系だとか言って侮辱している。もうね、中学の日本史からやり直しなさいよ、というていたらく。

 

まぁ私としてはそういう変な人がいてもなんとも思いませんし、変なこと言って関わりあいたくもありませんね。まともな話できないのわかってますから。

 

あの八咫烏騒動で誰が得したかと言えば、言い出しっぺの飛鳥だけですよ。流言飛ばして本を書く。オカルトライターの思いつきそうな、いつもの手です。

 

考えてみてください。世界、ならずともこの国を裏で動かすほどの力のある団体が、秘密裏にオカルトライターに接触したとして、なにがどうなるんですかね。

 

もし私がそういう組織の管理側にいる人間で、そういうつまんないことをするやつが末端で勝手に動いていると知ったら…その構成員を粛清しますよ。それが漏らした情報を本にして出した人間もね。ところがオカルト作家は無傷でしょ。それなりに稼げたわけでしょ?はじめからすべてがウソなんですよ。たった一人の筆から生まれたウソに踊らされてどうするんでしょうね。

 

ああいうオカルトライターのたぐいはマトモな現実社会の組織に属したこともないし、それがどういうふるまいをするものかすら知らんのです。だから巨大組織を語るとき、いつもマンガみたいな、失笑されるレベルの話ばかりする。

 

このての陰謀論めいた話はいつの世にも出てきますが、誰がその話で美味しい思いをするか、そこを考えれば事の本質が見えてくるものだと思います。八咫烏とか、ゾルタクスゼイアンとか。ほんとああいうのは、語るのも恥ずかしいぐらい幼稚な話ですわ。

 

 

<過去記事「不毛の秘密結社・八咫烏」>

https://ameblo.jp/mata-3/entry-12538246297.html

 

<過去記事「ゾルタクスゼイアン」>

https://ameblo.jp/mata-3/entry-12463981897.html

 

 

 

 

<追記>

 

八咫烏本来の意味は 「でかいカラス」 であって、八咫烏が三脚であったという表現は記紀、伝承のどこにもない。

 

日本最古の三脚烏はキトラ古墳の壁画に見られる三足烏である。この三足烏は中国は長江文明に起源を持つ太陽に住まうとされたカラス、「金烏」である。キトラ古墳の天体図は北朝鮮北部(高句麗)の緯度から観測したものという話が一時期出回ったが、これはまったくのデマ、

であり、あの天体図は観測されたものではなく伝統的なイメージデザインでしかなかった。ただし朝鮮経由であったとしてもキトラ古墳が大陸系、とくに中国の文化を色濃く反映したものであることは間違いない。有名な四神図などはそのきわみである。

 

熊野の神々は平安時代になって同定され祭神として祀られたが、それ以前の時代から出雲と並ぶ独自の宗教文化と宗教的権威を持つ土地であった。古代熊野で何が崇められていたか、本来の祭神がなんであったか、今となっては誰にもわからない。

 

もしかすると、日本神話をパッチワークして記紀のかたちに再構築した大陸系渡来人の末裔たちが、太陽の象徴である天皇を大和に導いた熊野の八咫烏に、大陸の金烏のイメージを重ねたことで、いつの間にやらただの「でかいカラス」が三本足の意匠としてお仕着せられたというのは大いに考えられると思う。

 

なお与太話・秘密結社八咫烏の話以前には、雑賀孫一の末裔を名乗る連中がその証拠だとして我が家の家紋は八咫烏、などと言っていた気がするが、雑賀鈴木の本来の家紋は「抱き稲に向かい雀」というありきたりなものである。

 

いわゆる雑賀衆、戦国時代の地侍連合がそのシンボルとして陣幕や関船の帆に描いた熊野式のバンザイした八咫烏(このブログのアイコンと同じもの)は、熊野水軍の流れを示すものであって、八咫烏がどこか特定の家、血筋の家紋だったという話はない。

 

その証拠に戦国時代の資料を見ても、雑賀衆の旗印は、八咫烏、抱き稲(鈴木)、たちばな(土橋)、と色々である。水戸雑賀家が八咫烏を家紋としたのは、血が絶えて養子が鈴木から雑賀へ姓を変えたときであり、戦国ゲームにもよく登場するあの横向きの八咫烏の意匠は古いものではない。

 

<追追記>

 

抱き稲に向かい雀と似たものに伊達の家紋「竹に雀」があるけれど、この意匠はもともとは上杉氏の意匠である。ほかにも日本には鳥の向かい合った意匠の家紋がいろいろあるが、もともとこの向かい合わせの鳥は物部氏のシンボルであった。

 

なお、伊達家は自分ちの家紋をなぜか商標登録している。伊達の「騎馬鉄砲」は雑賀衆の誰かが教えたに違いないという怪しい伝説があったりするが、それはまずない。なんとなれば雑賀もんが元和偃武の後に仕えた水戸(徳川家)、磐城平(鳥居家)、新発田(溝口家)の地理的配置をみればわかる通り、これらの拠点は伊達が南進してきた場合への備えであった。