中心論〜プーチン氏へ・中心を護る | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

 中心論〜プーチン氏へ・中心を護る

 

 先日、今年の前期に昇段した有段者の補講を行った。技術的に不十分な面があったからだ。とはいえ、技術的に不十分といえば、他の有段者も十分なものなど、ほとんどいない。私も含めて。もちろん、段位によって、習得レベルが異なることは仕方ない。段々に習得レベルが向上するものだからだ。よって、初段位を習得してからも、上達を目指して、すなわち、より高いレベルを目指して修練・稽古を行わなければならない。

 

 とはいえ、黒帯取得を一つの目標とし、空手武道の修練をやめる人もいる。その理由は様々だと思うし、これもまた、致し方ない。また、空手修練に求めるものが、個々人によって様々あることは、空手武道の一つの可能性かもしれない。しかしながら、私はどうしても、私の伝える空手の中心を明確にしておきたいと思ってきた。

 

【私のいう中心】

 私のいう中心とは、物理的中心(重心)であると同時に精神的な中心と言っても良い。今、その考えを明示しようと思っている。私は、どのように価値観が多様化したとしても、人間とその社会には中心があると思っている。そして、その中心が多様なあり方、考え方の平衡を保っているのだ。そして、その中心を何らかの力、例えば、遠心力にような力によって失うことがあるとしたなら、その人間と社会のあり方といった形は崩れていくに違いない。それが創造的な破壊なら良い。だが、私が危惧するのは、中心を喪失した分裂・分断である。その時、おそらく、権力者は暴力的または権力を駆使した処方箋を考えるに違いない。だが、そのような処方箋は間違いである。私は、なるべく早くに「人間と社会の中心とは何か」をより多くの人が見直し、気づくことだと思う。

 例えるならば、人間は絶えず、その中心を意識し、軸足の変化、体重移動による変化を察知し、そのバランスをとらなければならない。さもなければ、人間は自己の身体のバランスを喪失する。

 バランスを失い、倒れたら立ち上がれば良い、と思うかもしれない。しかし、その転倒により、甚大な損失を被る可能性がある。それが社会全体、組織の話となると、弱者が犠牲になるだろう。

 

 

 

【どんな時も自分は自分だと胸を張れるようになりたい】

 ここで私の幼少の頃を思い出す。私の幼い頃の願いは、「どんな時も自分は自分だと胸を張れるようになりたい」ということだった。そんな目標を持ったのは、自己の中心を知らず、またバランスを取ることができなかったからだと思う。言い換えれば、何らかの力で中心を奪われそうになっている状態だったのだ。当時の私の状態を人は「お前の心が弱いからだ」と思っている人が多いに違いない。

 

 それは、半分正しいが、半分は間違っている。私は心が弱かったのではない。無知だったのだ。それは、自己の行動への欲求が強いにも関わらず、その行動のための軸の存在。そして軸の活かし方を知らなかった。ここでいう軸の活かし方は、本能的、かつ経験的に身につけるものかもしれない。それができないなら、行動の仕方(型)として身につけることが望ましい。だが、それが難しい。なぜなら、現代とは、世界的にも価値観が多様化し、かつ欲望が肯定され、先鋭化してきている状態だからだ。私の幼少期は特にそんな時代だったような気がする。もちろん、私の印象であり、真実かどうかはわからない。また、いつの時代も人間の欲望が社会の原動力であることも事実だ。決して私の幼少期のみがそんな時代だったのではないだろう。しかしながら、多くの社会問題の核心を人間の無知だ、と私は考えている。言い換えれば、個々人、そして社会の権力者が人生、価値観、時代の変遷の中で中心と中心軸の活かし方を知らなかったことが問題点だと考えている。

 

【根本的な知(智)】

 中心軸の活かし方の要点は2つの軸を持つことだ。まずは、周り(全体)の中でどのように自分を活かしていくかという理念(イメージ)と行動規範の軸を持つこと。もう一つは、成りたい自分の欲求(欲望)を実現するための行動手段の軸を持つことである。

 そして、二つの軸を使いながら、対人関係において、絶えず攻撃(自らの働きかけ)と防御(他者からの働きかけに対する対応)のバランスを取ることが重要だと思う。言い換えれば、人が何らかの行動により生きていくには、自らの働きかけと同時に他者からの働きかけから自己を防御しながら己の欲求を実現するという感覚がなければならない。私は、優れた人の生き方は攻撃(力)と防御(力)のバランスが取れていると思う。

 少し脱線するが、かくいう幼少の頃の私は、生きる上での攻撃と防御のバランスが取れていなかった。断っておくが攻撃だ、防御だ、と言っても、私の使う言葉の概念が抽象的で理解されないかもしれない。言い換えれば、幼い頃の私は、比較的自由に育てられた。それ故かもしれないが、他者からの働きかけに対し、愚鈍な性格だった。いうまでもなく、自由に生きるだけでは行き詰まる。それでも、私は自由が大事だと思う。問題点はフリーダム・自由の意義と目的を検証・吟味しないことにある。また、明確に自由の意味を理解していないところにあると思う。私は、個々人が自由の意義と目的を吟味、検証することで本当の自由を知ると思う。そのプロセスこそが自由かもしれない。 

 話を戻して、私は、より善く生きるためには「根本的な知(智)」が必要だと思っている。また、それが中心軸の本体だと言っても良いかもしれない。では、その根本的な知(智)とは何か。

 

【自己と他者をより善く理解し活かすという感覚】

  根本的な知(智)とは、中心の感覚と言い換えても良い。私は、その中心の感覚がなければ、生きることが困難だと思っている。そして、その中心の感覚とは「自己と他者をより善く理解し活かすという感覚」だ、と言い換えても良い。つまり、中心の感覚を活かすとは、人間としてより善く生きるということに他ならない。

 だが、そんな説教じみた言い方ではなく、別の言い方を試みれば、「攻撃と防御のバランスを保ちつつ生きる」ということになる。言い換えれば、他者の感覚を理解し認め、かつ自己の欲求(欲望)を実現すること言っても良い。果たして、そんな生き方ができるのだろうか、と思う向きもあるだろう。しかしながら、そのような生き方が出来る者が善く生きる者だ、と私は思う。また、自己が運よく良く生きるのみならず、他者の欲求(欲望)を最も善く活かす道(理法)を示していく者が社会のより善いリーダーだと考えている。

 

 さらに言えば、最も重要なことは、人間が存在する社会において、社会(システム)自体が中心を喪失してはならないということ。そして、民衆に攻撃と防御の仕方を教えるということである。さらに、たとえ転倒しても、サポートする仕組みを構築することだと思っている。もちろん、成熟した社会にはそのような仕組みがあるに違いない。だが、時代の変化に伴い、今一度、原点に立ち戻り、個人のあり方、そして社会、そのシステムを見直す時期なのではないかと思う。

 

 私が社会及び社会システムの核心と考えるのは、「自己と他者をより善く理解し活かすという感覚」「攻撃と防御のバランスを保ちつつ生きる方法を伝える」ということだ。

 補足すれば、同時に、幼いころに大きく心身を使い、バランスを失うような体験をさせることが必要かもしれない。そんな体験の中から、バランスを取ることの大事さを体認することができる。大事なことは、バランスを失い転び、倒れることを否定したり、批判したりしないことだ。まずは失敗を恐れず行動する気分の醸成を目指すこと。そして、社会がそのような行動を担保することが大事だ、と私は思う。

 

 私が考える武道修練も、先ず以って自己の中心と対峙することが重要だ。そして自己の中心と対峙するとが他者の中心と対峙することにつながるということを自覚すること。自分の感情に任せ、相手の中心と対峙せず、力任せに自己の力を相手にぶつける。そんなあり方は、あまりにも未熟で浅はかである。もちろん、私にもそんな時、そんな面があるだろう。しかし、そのような状態を未熟だと自覚しないような修練では、道に出会うことはないだろう。そして武道とは言わない。日本武術、そして日本武道が到達した境地は、自己の中心と対峙し、それを護り続ける努力、そのことなのだ。

 

 

【武術・武道の中心〜プーチン氏へ】

 最後に、私の考える武術・武道の中心とは、形はないがあらゆる技の中にある。そして、あらゆる技を活かしめている。だが、多くの人にはそれが見えない。また見えたと思っても見えていない。

 

 ウクライナに侵攻したロシアの指導者、プーチン氏は柔道の愛好者だという。誤解を恐れずに言えば、私はプーチン氏は魅力的な人物だと思う。プーチン氏が講道館を訪れた際の振る舞いにその真骨頂をみる。だが、彼は人間と社会の中心たる中心を理解していない。あえていうが、中心は暴力を背景にした権力ではない。また、ウクライナの人達の苦しみ、怒りを想像すれば、プーチン氏を支持することは到底できることではない。そして、私はウクライナの兵士たちの勇気に最大の敬意を持つ。もし、プーチン氏が日本武道の真髄が、単なる格闘技ではなく、物理的にも精神的にも「中心を護る」という感覚だということを理解していれば、行動が違ったものになったと思う。今からでも遅くはない。ロシアの中心を護るため、また人類の中心を護るために争いを止めることだ。

 

 問題は、多くの武道や武道家を掲げる人達のみならず、政治家にそれが見えないことだ。かくいう私に完全にそれが見えているかといえば、見えていない。また、中国の思想書、「老子」の一節だったと思うが「知る者はいわず」と言う言葉が浮かぶ。だが、そんな言葉の真意は言葉も自分の頭で考えるのではなく、実践、そして五感で感じること、そして吟味するこが大事だという示唆を含んでいると私は理解している。

 私は、五感で感じたもの、そして直感を頼りに残りの人生を生きていきたいと強く思っている。同時に言葉を吟味することも重要だと思っている。故に武道という言葉を吟味する。あえていうが、私は人間として未熟だろう。また変形しているかもしれない。そんな私が大仰なことを言うのは恥ずかしいが、私は武道を学んだ人が自己の中心を悟れるようにしたい、と思っている。そして、私の武道哲学が武道人自らを活かし、かつ他を活かしつつ生きるために、ほんの僅かでも貢献することを願っている。

 その願いを実現するためにも、より多くの人が老人となっても若い人たちと一緒になって、互いに学び合い、心を高め合うように修練できる武道(理念と修練体系)と道場を創設したい。

 そのためには、修練体系を改編することは当然のこと、「中心を護る」という理念を理解してもらえるように努力しなければならないと思っている。自己の中心のみならず、他者の中心を、また社会の中心を護るために…。