増田章の『からだで考える』

増田章の拓真道(タクシンドー)


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3回にわたり武道と武道人について書いた。これは、横綱の暴行事件でマスコミが喧しいのに触発されて、芸を極める武道家のあり方を考えてのことである。私は武道とそれに関わる人間のあり方の理想を、現時点でこのように考えている。できればその1から3までを通しで読んで欲しい。

 

近況報告

腰のヘルニアによる右脚の痺れの具合は、ほんのわずかであるが改善に向かっているように思う。しかしながら、依然として蹴りはできない。特に右脚を軸にすることができない。周りには私の脚が不自由だということは、ステッキを見せなければわからないであろう。気をつけて歩いている。ちなみに右脚の力が左脚に対する3分の一である。脚の太さを測ったら3センチ強、細くなっていた。しかし、後2ヶ月ほど、脚の痺れ、不具合があるとすると、様々な故障から4〜5ヶ月間、稽古ができないになる。それでは、これから考えている、増田流の極真空手の集大成に向けた取り組みに、かなりの支障が予想される。ゆえに、痛みと相談しながら、機能保持を行い、その時に備えねばならないと考えている。休んで入られない。結果、健常な時よりも、手間がかかる。その分は、イメージトレーニングを行うしかない。私の得意はイメージトレーニングである。この能力をさらに伸ばすことが、必ず新しい発想を生むと信じている。

 

現在、あるひらめきがある。私はその道を行きたいと考えている。ますます道場生や既存の空手家から遠ざかり、離れていくが、その道は必ず、道場生や空手家に貢献するものとなると思っている。今、読みきれない書籍を前にしながら、まだ読みたい、まだ知りたいと思っているところである。

 

 

 

武道と武道人〜横綱の暴行事件に対し その3

 

少し脱線するが、世間でいう武道を掲げる者は、武士道の影響を連綿と引き継ぎ、武士道を叫び、人間形成や人格形成を謳う。それらには、徳川時代に謳われた「士道」の思想も入り混じっているようだが…。それに対し、私は一定の理解と支持はしたいと考える立場ではある。しかしながら、今は戦国の世や徳川の世ではない。私はそのイデオロギー性をそぎ落とし、もっと普遍性の高い思想に進展させるべきだと考えている。そうならないで、単なる古典として掲げられているのは、それが体得されていないか、それともすでに形を変えて引き継がれているかである。正直に言えば、何かと武士道という方の多くに私は疑念を持ってきた。ゆえに私は、何が武道の本質で、何が武士道や士道の本質かを見極めたいと、考えてきた。しかし、その果てに思うことは、廃れたと思っていた武士道の中に、現代にも応用できる普遍的な精神性があると、私は考えている。

 

【私が考える武道人】

 

話を戻せば、私は、武道とは心身を極めるための武術修業が核にならなければならないと考えている。なぜなら、武術修業でなければ、命懸けの状況を想定できないからだ。そして、そのような極限状況から、自己を取り巻く仲間たちや家族の存在を考えていくことが、真の人間修養になると考えているからだ。そのように武術修業を核とする武道を通じ、さらに自己を武道人として確立することを考えたい。

 

補足すれば、「仲間を家族として考える」とは、武士がその所属する家の一員として、自己のみならず家族に恥をかかせないという生き方を実践することである。それは「人の道」に適うものであった。その「人の道」を別の言い方で表した語が「義」であると、私は考えている。ゆえに私は、徳川時代、武士に叫ばれた義とは、家に奉公する者としての人の道の別の表現であったと推測している。

 

さらに言えば、家の単位が、自らの生家から、奉公する家、そして国家に拡大していける知力と度量がある者が、その道を拓き、時代を拓いたと考えている。更に言わせていただければ、現代は、自己のみならず他者の家族も、また自国のみならず他国の家族のことも慮れる知性と度量を有するリーダーが必要である。そのようなリーダーが世界平和にも貢献し、現代の武士道を拓いてくれると、私は夢想している。

 

今回、武道について補足したかった。その要点は、私の考える武道は、だんだんと武道人としての自己の確立につながっていくということである。

 

武道人とは、私が考える武道を追求する者のことである。また、自分自身の本体を自覚し、より善い社会の醸成に貢献していく。さらに、そのような社会を作るために必要な哲学が武道人哲学である。私は、それを現代の武士道としたい。

(終わり)

 

蛇足

私は武士道などと偉そうなことを言える人間ではないと思っているが、武道に関してどうしても見極めておきたかった。また、今回の横綱の暴行事件は、空手家であれば、身を守る以外に、その技を使った時点でアウトである。

 

相撲界のみならず武道などの世界には、弟子や後輩に体罰で指導するという慣習があるようだ。私は大嫌いだが、相撲界にはそのような慣習が、未だ残っているのだろうか?もし、その次元の俎上に載せるなら、現代社会ではアウトだろう。

 

このようなことが起こるのは、幼少時の体験。要するに、個々人の育った家の教育方法の影響もあるだろう。もしかすると、日馬富士の育ったモンゴルは、子供をしつける時、殴るのが当たり前だったのかもしれない。ちなみに私は子供を殴ったことはない。良い子だったというのもあるが、私の幼少の頃を思い出せば、相当な悪ガキだったにもかかわらず、殴られたことはない(一度ぐらいあるかな)。私の友人達は、親父からいつもぶん殴られていたと言う(笑い)。私の幼少の頃はそれが普通のようだ(知らなかった)。あるとき、私は父に、「私を体罰で殴ったか」と聞いた。父は「言葉では叱ったが、手を挙げたことはないよ」という。そのとき、「やはり、そうか」と思った。私の体の中に指導するときに体罰を使うという感覚がないのだ。私の空手の恩師である師範にもそのような暴力的な匂いが、全くなかった。だから、私は信頼して道場に通ったのであろう。そのあと、私が独り立ちしてから、その優しい師範が、どこかの師範の真似をするかのように、弟子にビンタしたとの噂を聞いた。親に対し生意気だが、「自分の良さを自覚していない」「心の迷いとしか言いようがない」と言いたい。また、暴力による強制は、必ず遺恨を残すだろう。ゆえに、よほどのことがない限り、やることではない(それで逆に信頼感を得るような、少々捻じ曲がった心の者もいるかもしれないが)。私は、テレビや漫画、映画のなどの影響で、他者に暴力を振るった幼少の頃の私の浅はかさと未熟さを強く恥じている(テレビや漫画、映画が悪いと言っているのではない。ただ、暴力に対する免疫のような教育が必要だったかな)。ただし、手を挙げなくても言葉を暴力と捉える向きもあるし、それとの比較で暴力の方がまだマシという考えも出てくるかもしれない。そうなると、どんどん問題がややこしくなっていく。一つだけ言えば、私は失敗を許していく社会システムが必要だと考えている。簡単に言えば、「人間の失敗をどのように許すか」。そして「失敗者に対し再チャレンジのチャンスをどのようにして与えるか」である。そのような面からマスコミや有識者が、今後のあり方をどうするか、考えて欲しいと思っている。

 

おそらく、甘いとお叱りを受けると思うが、横綱に引退の勧告をするとするのは良くないと、私は思っている。なぜなら、後々に様々な遺恨が残る可能性が高い。私は罰金(300〜500万ぐらい)と厳重注意ぐらいにとどめておいた方が良いと思う。なぜなら、相撲は所詮、芸能なのだから。さらに言えば、今回、いじめなどの事件ではなかったように思う。おそらく、身内同士の酒盛りで、酒の勢いが出たのだろう。また、民間人ではなかったとなども考慮し、一度に限り、失敗は許してあげる方が良いと思う。ただし何度も不祥事を起こすようでは、その時は別だ。

 

追加

ちなみに、私の組織でそのようなことを起こしたらが、即刻、破門とすると皆に伝えてある(原則ルールだが)。また、組手で強く相手を攻撃しても同様である。昔は昔。今は今。今は、私が道場の家長であり、師匠だから。私がルールを制定している(もちろん明文化し、仲間に承認を求めた上でだが)。また、師匠である私が暴行事件を起こしたら、即刻、現場から引退するだろう。

 

 

 

 

 

 

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【武道の現代社会における意義を考える】

私は、個と組織のあり方を考察することは、武道の現代社会における意義を考えることにつながると考えている。

まずは大相撲の横綱の暴行事件をもう少し見てみたい。

 

私は大相撲の横綱とは、スポーツで言えば、スター選手以上の存在であると、考えている。また、神事の一環としての大相撲の横綱とは、当然、神道の思想を受け継ぐものである必要があると考える。とはいうものの、プロスポーツにおけるチャンピオンやスター選手にも、社会的責任があると思われる。その社会的責任とは、社会全体に悪影響を与えたというようなこと以前に、組織の一員として、仲間に損害を与えないという責任である。例えば、チャンピオンや横綱が社会的な不祥事を行えば、その仲間、すなわち同じスポーツや相撲のイメージが悪くなるというようなことである。そんなことは当たり前のことであると、思われるかもしれない。しかし、そうではないから、こんな問題が起こるのである。

 

【技を極めることと人間性を高めることとは異なるのか】

危惧されるのは、プロスポーツも大相撲も「技を追求する者達の集まり」である。このような事件が起こることによって、技を追求する者達の心が低い次元だと、見限られることである。ここで、「プロスポーツや大相撲は技を追求する者たちの集まりではない」という向きがあろう。確かにそうとも言えるかもしれないが、私はそう考えていなかった。私は、プロスポーツや大相撲は、高い技術を追求する集団だと思っている。それでは、技を追求することと人間性を高めることとは異なるのか、と読者は思われるに違いない。

 

私は、武道を『勝負という価値の存在を前提に、たゆまぬ「技術探求と修練」とそれらと一体的に生じる「心の把握と創出(追求)」を通じ、勝負の認識が相対的な次元から絶対的な次元へと超越していくこと』が武道の本質であると、定義した。また、スポーツや相撲の道と武道、武の道とは、同一ではないが、共通部分もあると、私は考えてきた。しかし今回、武道を掲げる者として、その違いを明確にしておかなければと、考えている。

 

スポーツや相撲の原点を単なる勝負とそれに伴う技術として捉えた場合、私の考える武道とは似て非なるものとなる。その相違点は、「勝負の認識が相対的な次元から絶対的な次元へと超越していくこと」が意識されているかどうかである。そのようなことが現出するには、命懸けを想定しなければならないと、私は考えている。そういう意味では、多くの武道がその条件を満たしていない。ただ大相撲は命懸けのものに見えた。しかし、そのように見えたとしてもても、それを行う者に私が定義する武道の本質と同様な意識がなければならないのかもしれない。おそらく、多くの力士にはそのような意識はない。結果、斯界の存在意義は、単なる勝負とその技術の花が咲く、世阿弥が言うところの時分の花を見て楽しむ場となる。悪いことではないが、それでは単なる芸能になってしまう。

 

【武道の核心から武士道の萌芽】

 

そもそも、私が武道の核心として挙げた「勝負の認識が相対的な次元から絶対的な次元へと超越していくこと」とは、どのようなことか。それは、「命懸けの状況における自己の存立への道」である。補足すれば、命懸けの状況とは、まだ武道の次元に到達していない武術の次元でもある。ということは、私の武道の核心は、武術の次元に立つことを通過しなければ、到達しない次元であるということだ。さらに言えば、命懸けの状況状況においては、世間の相対的評価基準に右顧左眄するのではなく、絶対不敗の道を求めなければならいと、私は考えている。

 

古の武人はそのような観点から、自己というものを受け取り直したのではないかと思うのである。そして、その到達点として、「不断に自己のみならず家族に恥をかかせない」という覚悟に達したのではないかと想像する。それは武士道の萌芽である。また、その結果、武人として家族を持たないという極端な者も現れただろうことも想像できる。そのような武人の存在は、逆に私の推論を証明することになると思う。つまり、そのようなものは、「純粋に武人たらん」とした者であり、為政的な武士道や士道への追従を良しとしなかったのである。

 

先述した武士道の萌芽を、私なりにイメージすれば、たとえ経済的に苦労をかけても、否、だからこそ、それらが充たされなくとも信じる何かを伝えていく。それが、武術修練を基本とした古の武人の到達点であり、それが武士道につながっていると思う。さらに考えを進めれば、自己の立場がより多くの者と繋がった状況、すなわち組織的な状況に置かれている場合も同様である。つまり、自己を存立させる組織に恥をかかせないことが、自己存立の道として意識される。それを別の言い方をすれば、名誉を重んじるということになる。

 

そのような自己と他者と社会に極めて対峙的な感性が、武術修業や他の為政的な思想、宗教の教義に影響され、段々と進展して行ったものが、武士道だと私は考えている。そのような名残は、日本人の感性の中にまだ残っていると思われる。しかし、昨今のエリート達の不祥事を見るにつけ、その恥や名誉の感覚が、とても薄っぺらなものに思えてくるのは、日本人全体が猛省しなければならないところだと思う。

(さらに続く)

 

2017-11-19:一部修正

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武道と武道人

 

 

大相撲の横綱の暴行事件で世間が喧しい。また、過去にもスポーツ選手などにも不祥事が見られた。

 

集団や場に関わる人が多くなれば、様々なことが起こる可能性が高まるのは当然である。ゆえに、関わる人が多くなった時は、速やかに組織化を行わなければならない。組織化とは、組織の管理体制の構築を機能面と照らし合わせて推進し、かつそれを改善し続けることだと、私は考えている。また、組織化がより高次に遂行されるには、そこに理念と目的が明確になっていなければならない。このことは、人がまとまり(集団)、作り上げる組織のみならず、一人の人間(個人)においても当てはまる。つまり、一人の人間も個々の部分が纏まった組織であり、管理と機能を強化し、かつ改善し続けることが必要である。また、そこに理念と目的が明確になっていた方が、より善い行動・生き方ができると考えている。

 

さて冒頭に、横綱の暴行事件に合わせて、組織について述べた。その理由は、今回の横綱の事件を観て、改めて個人と組織、武道と武道人について考えをまとめたいと思ったからである。補足すると、私はこの横綱の事件を、何らかの利害を共有する、一人の人間(個人)の集合に対応する組織と、一人の人間(個人)に内在する組織的な機能の面から眺めている。そして私の武道論を補足しつつ、個人と集団、組織と個などのテーマで、自分の考えをまとめたい。

 

(続く。かなりエネルギーを要するテーマなので、少しずつ時間を捻出しながら書き、ある程度書き終えたら、それを推敲し纏めたい。ゆえに内容は一旦、思いつくままに書き、その後、修正を加えていく)

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型と自由〜増田章の「求道的武道論」…「求道為生楽」

 

武道とは何か?

武道とは何か?巷には諸論が溢れてはいるが、「その多くが正鵠を射ていない」と私は考えている。

武道について学術的に論文を書きたいと考えているが、文献の収集と読み込みが不十分なことと、研究費がないのでそれを進めることができない。

 

これから書くことは、増田の直観的思惟の記録である。まずはじめに私が考えることは、武道とは語であるから、なんらかの意味、概念を内包するものだということである。そのような前提を是とすれば、諸論あることは自然なことかもしれない。

 

ゆえに、私の立場は最大公約数的な要素を抽出すること。また、その底流にある、思想的な共通点とその思想的要素において、もっとも普遍性を有する要素を重要視したい。そして、それらを生かすような武道論を次代に繋げたいと考えている。

それら最大公約数的な要素とは、まず身体、または武具(道具)を用いた他者の制圧技術の体得が目的とされていること。その要素は武術的な要素と言い換えられるかもしれない。もう一つは、「道」と云う語に内包される意味、概念が示す要素のことである。

 

「道」の概念

私の武道観を理解するためには、まず「道」という語が示す概念を理解してほしい。もし本格的な論文として書くならば、そのところを徹底的に取り上げたいが、今回は簡単に述べるに止めたい。

 

道とは訓読では「みち」、音読では「どう」である。武道の道は、音読の「どう」と読むが、武道には「武の道(みち)」、または武蔵の概念では「兵法の道」「太刀の道」という要素が入り混じっている。入り混じっているという表現を用いたのは、言葉もそうであるように、概念とは、多様な意味が包摂され融合して伝わっていくのが通常であると、考えるからだ。

その辺は、日本の思想史の先哲の論文を紐解くとのめり込んでいく。その先哲の中で日本思想の研究者で第一人者であった、故・相良亨氏の著作によれば、『「みち」には、辿り着くという営みのイメージ、方向性のニュアンスがある』。一方の『「どう」には、究極的境地のイメージがある』とある。

 

また相良先生の著作では、「みち」のニュアンスを代表する思想に武蔵の五輪書の思想を、「どう」のニュアンスを代表するものに道元の思想を取り上げている。また、千利休の創始した茶道の思想や世阿弥等の能の思想も少し取り上げている。さらに、中国思想をも取り上げ、その源流をたどるような試みもされているように記憶する。

 

ここで断っておきたい。私は、中国の「道」について、儒教的な「道」と道教的な「道」とがあり、それらは異なることを知っている。

 

相良亨先生の著作では、儒教的な道の概念を紹介するに止まっていたように思う。ちなみに儒教的な道の概念の代表は、朱子(朱熹)の「道は即ち理なり」というものである。それを日本の中国哲学研究の第一人者であった、故・溝口雄三先生は「中国の理はヒトの本然的秩序観念」であり、それは時に現成の秩序には破壊的に働きさえする」と述べているようだ。余談だが、この溝口先生の講義を私は受けたことがある。その際、知人の介在で質問する機会をいただいた。その時の質問は稚拙な質問だったと、恥ずかしかった記憶がある。しかし、稚拙だと分かっていながらも聞いておきたかった。その質問の内容は「先生は大和魂というようなものはあるとお考えですか?」というものである。私は当時、中国哲学のみならず、日本仏教、そして本居宣長の思想に興味があった。ゆえに、先生にものすごく端的な質問をしたのであった。私の稚拙かつ突拍子もない質問に、溝口先生は丁寧に答えてくれた。その答えは「そのようなものはないでしょう」というようなことだった。

 

話を戻せば、儒教的な思想も道教的な思想も日本人の中で包摂されかつ融合され、独自の思想に生まれ変わっていったというのが、私の考えである。また、そもそもあらゆる思想は、多様なものや時代背景からの影響を受け、次第に変化していくものだと考えている。それをこうだと言い切るのは、中国の儒教もそうであるように、またそれに反発した本居宣長の国学が生じたのも人と社会を啓発、感化させ、組織的な働きを人口的に生み出したいとの欲求が人にはあるからだと考えている。さらにその欲求が言葉を進化させ、概念や思想を生んでいく。そのような様相を人間教育的と見るのは当然であるが、武道の本質はそうではないであろう。

腰の具合が良くないので話を進めたい。本当はこのような論説では不十分すぎる。それなりに関係文献にも接したが、頭が悪いのもあり、研究を発表するにには数倍の文献の読み込みが必要であろう。現在は、私の武道家としての直観に頼っている。

 

私の武道論(武道観)の核心

さて、私の武道論(武道観)の核心を一言で言えば、武道の本質は、技術の探求を通じた「求道」だということ。また、武道の稽古は全てが型の修練だと言っておきたい(組手修練も型修練の一環として行う)。

 

難しく言えば、『勝負という価値の存在を前提に、たゆまぬ「技術探求と修練」とそれらと一体的に生じる「心の把握と創出(追求)」を通じ、勝負の認識が相対的な次元から絶対的な次元へと超越していくこと』が武道の本質であり、究極である。そして、誤解を恐れずに言えば、道徳的な人間教育を含め、そこに何らかの社会的意義を見出していくのは大事なことだが、後付けである。

 

さらに言えば、私の考える武道とは、観念的かつ理論的なものではなく、その行法(修業法)の中にこそ、真の価値があるものなのだ。

ゆえに、その修練・稽古においては、独りで行う型ではなく、他者と行う型(組手型)を重視する。そして、他者との関係性の中で自己と対峙し、相対的な自己から絶対的な自己に到達すること(自由自在の境地)を目指す。そして、自己を生かしかつ他者を生かすことを学び、実践していくことが大事である。さらには、その中から得た自由を以って組手を行うこと。ゆえに組手において目指すべきは、単に勝つことではなく自由自在の境地において勝つことであり、事理一体の境地である。

 

補足すれば、その相対型(組手型)の中には、その技の基本的単位としての所作の仕方としての型(全ての基本技)が存在する。ゆえに稽古では、基本技(型)が徹底されなければならない。ゆえに繰り返すが、武道の稽古においては、全てが型稽古であると言っておく。

 

【蛇足】

求道為生楽

以上の思想を基盤にして換言すれば、私の目指す武道は、「求道為生楽」、すなわち「道を求むるは(求道)、生きるを楽しむためにす」である。茶道の思想を参考にすれば、「型を生かしつつ自由自在を得ながら自他の存在を味わっていくこと」と言っても良い。茶道を知らない私が、偉そうに茶道の思想などと言っている。しかし、私の目指す武道はそういうものである。

 

最後に、私はかなり前に本居宣長の足跡を追い、松坂を訪ねたことがある。実は日本武道家として、本居宣長の思想を研究したいと今も思っている。ただし、私は中国哲学に批判的な立場でもなければ国学に肯定的な立場でもない。ただ、社会的指導者たちが、武道精神だとか大和魂というような語に内在させようとした意味、そして、それらが生じ、浸透していく構造を把握すること。その上で、より良い新たな構造を生み出す力を得ることが、私の研究テーマである。それは本居宣長の目指したものと共通点があるのではないかと、直観している。さらに言えば、私が日本武道に観る、本来の「道」の思想とは、昨今言われているような武道の概念とは異なる。そのことを確かめる過程で、本居の生誕地の松坂(三重県松坂市)を訪ねたのだ。その意味でも、溝口雄三先生からいただいた答えには、十分な意味と収穫があったと思っている。

(富士山麓、西内邸にて)

 

蛇足と訂正:「求道以生楽」は先日、習近平氏が演説の最後に諳んじた漢詩の一節がかっこいいいと思ったので、漢詩風に私が作った言葉である。友人の奥方が上海雑技団の年配の先生に聞いてくれた。そして中国語的には問題ないと言ってた。ただ、漢語的?漢詩的?に間違っているかもしれないのでご容赦を。そう言えば、中学生の時、日本の詩歌のみならず漢詩も好きだったなあ。余裕があれば中国語を覚えたいな(ないけど)。

2017-11-15:一部修正

「求道以生楽」は漢詩の文法的に間違っていると、道場生の大学教授に指摘された。ゆえに「求道為生楽」に変更した。古の日本人の漢詩がかっこいいと思っていた中学生時代のことを思い出して書いたが、そもそも勉強不足であった。恥ずかしいので書棚にあった漢文の本を読むことにした。

 

 

2017−11−13:武道論の核心を一部加筆修正しました。

 

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自由と優しさのある社会 〜衆議院選挙を見て思う

 

【小学校時代の女子転校生のこと】

 

月二回の空手武道通信の更新のために気合いを入れたが、冷静になると不安が生じる。横になると痛みは和らぐが、起きると腰の痛み、脚の痺れが出てくる。

今回のヘルニアは、L3〜L4椎骨間のヘルニアの逸脱なので、腿から膝にかけて痺れと、麻痺に近い症状がある。軽度だとは思うが、1日に1回は、脚が踏ん張れずに転ぶ。とにかく横になって、資料の読み込みをしようと切り替えるが、不安感は否めない。

 

そんな中、ふと思い出すのは、小学校時代の女子転校生のことだ。私は小学校6年生の時、松葉杖をついた彼女の姿を覚えている。とても可愛らしい子だった。私は小児麻痺か何かで脚が悪いのだろうと、当時思っていた。優しくしたいなと思っていたが、恥ずかしくてできなかった。

 

その後、交通事故や膝の手術などで松葉杖を使うたびに、彼女のことを思い出した。幼い恋心の話ではない。脚が不自由だということは、とても不幸だとは思わないが、大変なことだなと思っている。もしかすると、彼女は自分の脚が不自由だとは考えていなかったかもしれない。なぜなら、幼い頃からそのような状態ならば、それが当たり前である。また、そのような状態を受け入れ、前向きに生きていたとしら、それは自由なあり方であったろう。

それを不自由だと決めつけるのは、間違った定義、そして雑音のような気がする。しかし、そのような状況の人間が様々な可能性に挑んで行けるような自由度が社会になければ、それは不自由な状況と言わざるを得ない。

 

考えを整理すると、私が考える自由は、自分自身が行動を選択し、人生を開拓する自由だが、同時に、より先進的な社会は、多様な人間の様々な可能性を包摂し、その自由度を保証する社会だと、私は考えている。そして、前者が本当の自由であるが、多様な人間が共に育み、制度、ルールとして不自由を廃し、多様な自由を後押ししていくことも必要なことだと考えている。また、それは一人ひとりの自由を自覚させ、人間が社会を形成し生きていくために必要な優しさであると考えている。私はそんな自由と優しさのある社会を望みたい。

 

【ボクシングで勝つものは】

そんなことを思いながら身体を横たえ、テレビでボクシングの村田諒太氏の応援をしていた。そして、圧倒的な安定感で彼が相手チャンピオンをTKOで下し、ミドル級の新世界チャンピオンになった。驚いたのは、勝った後の彼の一言が、どこかで聞いたような言葉ばかりだったことだ。

 

村田氏は勝者インタビューでこう述べた。「ボクシングで勝つものは、相手を踏みにじり、勝者になるのだから、それなりの責任がある…」。こんなことをボクシングの試合の後、言う必要があるのかというのが、率直な感想であった。おそらく、そんなコメントをスポーツの試合で聞いたことがなかったからだろう。テレビでは彼にボクシング指導をした先生の教えのようだ。しかし、それをあの場面でいうということは、彼自身の魂の中に、その哲学が刻印されているからだと思う。実は、私も同じことを遠い昔に思ったことがある。それを、拙著「増田章 吾 武人として生きる」に記した。実は現実の勝者たちがそうでないのを目の当たりにして、それを書いたのである。

 

その後、テレビでは衆議院選の結果が発表になっていた。その日、台風と腰痛の中、杖を着いて投票所に向かった。正直、気が重かった。

 

【最近の政界とその論評には】

なぜなら、最近の政界とその論評には、枝葉末節的な論議が多く、政治とメディアに愛想をつかしていた。それでも、朝日新聞を定期購読する私は、基本的に新聞が好きである。できれば全紙読みたい。時々、新聞で面白い記事を目にし、感銘を受ける。

 

ただ今回の朝日は、中立を謳いながら、安倍批判がひどかった。私は中立と言う考えに疑義を持っている。ゆえに、朝日は中立を謳うのではなく、徹底的に安倍批判を展開するのなら、それも良いと思っている。正直、偏向的と感じる記事が多々あるが、今後も政権批判をしたいのなら、信念を持って批判すれば良いと思っている。そして批判に対し、安倍首相は時に丁寧に答えるべきだ。ただ必要ないと判断すれば、淡々と政務を執行すれば良いと思う。

 

かくいう私には、安倍首相の仕事ぶりは、ここ20年間の政界を見て、誰よりもまともに仕事をしているように見える。ゆえに私は安倍首相を支持している。

 

繰り返すが、私が感じるのは、メディアも含め、問題提起の仕方が皮相的すぎることだ。そして、最も重要な政治の問題は、政治家と我が国のリーダーの資質の問題であると考えている。

 

中には良いと思える人もいるが、本当に政治のリーダーにふさわしい人が、政界に育っているようには見えない。

 

【政治家やリーダーは木】

 

私は、政治家やリーダーは木、政策はその果実、メデイアを含めた国民の意識は、自然環境。社会制度、システムは土壌に例えられると考えている。

私の脳裏には「木を育てるには自然環境と土壌が大切である」そのような思いが浮かんだ。あと水も必要だが…。この水にあたるのは、抽象的すぎる概念だが「愛」「仁」「良心」でろうと私は考えている。

 

ところで、今回久しぶりに政治について書いているのには理由がある。足が痺れる中、友人が心配して電話をくれた。実は、その彼も身体の調子が悪いという。そして精密検査を明日に控えているという。

 

毒舌の私は「〇〇ちゃんが僕よりも大変そうなので元気が出たよ」「ありがとう」と言った。

その友人は私の性格をよく知っているので、「それは良かった」と電話口で笑っていた。さらに私は一言多く、「結局は自分の人生をどう納得するかだ」「納得できない場合もあるかもしれないが」「どんなことでも良い、自分の納得できることを探して生きるかしかない」と、いつものように上から言った。いつものことだが、そのような言葉は、自分に言い聞かせている言葉なのだ。

 

つまり、村田氏の言葉や友人の声を聞いたら、何か心の奥底から出てくる思いを認めたかったのだ。そして体調不良の中、政治について書いてみる気になった。

 

【良い政治家を誕生させるために必要なことは】

 

さて話を戻したい。良い政治家を誕生させるために必要なことは何か。極論すれば、駄目な木は引っこ抜き、土壌改良をしなければならないということだ。

 

次に自然環境である。ここでいう自然環境は、先述したように有識者と言われる知的権力者を含むメディアと国民の意識である。我が国の伝統として、自然に対して「仕方ない」という意識が強すぎるように思う。 要するに、自然環境に対し、積極的に立ち向かうという欧米的な考え方、思想はあまり根付かなかった。ゆえに大きく抜本的な改革は好まないようだ。明治から昭和初期のエリートの言動にそのような志向性をみるが、その野望は挫折した。

 

その挫折も相まって、伝統的に自然を生かすという方法を考える方に傾きやすい。と言えば、よく言い過ぎのようにも思う。平たく言えば、目先の安定を求める傾向が強いのだ。そのような面は、ある種良い面とも思えるかもしれない。

 

しかしながら、世界的な潮流を読み、戦略を考えること。また、大胆な土壌改革、つまり抜本的なシステムの変革に関して及び腰となる。言い換えれば、国民の意識改革が困難なのは、我が国がいかに自然環境に恵まれ、かつそれを上手に生かしてきた、良い国であるとの証明でもある。ここでは、それに関してこれ以上言及しない。しかし、私がメディアや有識者に対して考えてほしいのは、皮相的な施策の是非を国民に流布しないでほしいということである。

 

もっと、最先端の人類の叡智を紹介してほしい。

 

また私がいうとレベルが落ちるかもしれないが、例えば、教育に関する政策について思うことがある。

 

【農業に例えてみる】

 

それは教育を人と技術という作物を育む農業に例えてみることだ。そう考えてみると、もし国内的にも世界的にも必要とされるような作物と品種(人材と技術)の創出を行いたいならば、品種の改良と土壌改良が必要だと思えてくるはずだ。また、物流手段や農業に従事する人材を多方面から集められるよう、柔軟性を有するシステムへの転換も必要であろう。つまり、教育も農業のように、どのような作物、そして品種を作るか、またそれをどのように社会に活かしていくかということだ。同時にそのようなシステムをデザインし構築することが必要だと思えてくるはずである。補足すれば、どのよう人材を育てていくのかという意識が人材育成、教育では重要だと言うことである。さらに言えば、今日は自国の価値観だけを重んじるリーダーは通用しまい。他国の価値観も包摂するような価値観を提示できるリーダーでなければならないと思う。

 

私はそのようなことを前提とした政策を考えた上で、資金面の援助を実施したら良いと思う。現在の政策案はあまりにも対処療法的すぎる感がある。

ゆえに、極論すれば、教育政策は、小中学高校、大学を含めた学校改革に行き着くと思っている。しかし、そこには既得権益者の厚い壁が立ちはだかっていると思う。

 

誤解を恐れずに言えば、幼児教育の無償化は、少子化対策であり、教育政策とは本質的には異なる。また政府が行う奨学金の充実は高等教育政策の理想形ではない。簡単ではないだろうが、もっと教育界に自由度を与えるべきだと思う。正直言って、子を持つ親としては大変ありがたいが、それでは将来的に破綻が見えている。

 

要するに私の意見は、教育支援は、社会保障の一環としての資金援助と教育政策とを分けて考えるべきだと考えているということだ。そして後者が優先すると考えている。つまり教育方法の多様化、柔軟化を実現して欲しいのだ。さらに言えば、教育機関の多様化と同時に横の連携を形作ることである。それが将来の各界のリーダーを育成する土壌となると考える。

 

ここでは教育政策を例えに用いたが、一番重要なのは、政治家を輩出する選挙制度の問題である。端的に言って、小選挙区比例代表並立制はよくないと考えている。ある政治家が二大政党制を実現するにはこの制度しかないと提言し、皆がそれに乗った。そもそも、「二大政党制とは何か?」しつかりとイメージできていない。

 

【小選挙区制は】

 

私は、小選挙区比例代表並立制は、二大政党制が目的化し、中身が問われていないと考えている。また党の中央集権的な権力を強化する等、理論的にも小選挙区制に対する批判に与する立場だが、そんなことより危惧することがある。

 

稚拙な例えだと笑われるかもしれないが体感的に思うことだ。

それは、スポーツに例えることで理解してほしい。

まず小選挙区制は、まず「勝ち負けをはっきりさせる試合ルールを作りましょう」というだけの非常に曖昧なルール作りだったように感じる。しかし、試合ルールを設定する際、そのルールの結果、「どんな選手ができるのか」「どんな技術が発展、創出されるのか」「見る人は納得するのか」「試合する者が、結果を糧に自己の技量、能力を進化させられるのか」などなどを考慮しなければならないと思う。また、「日本人の身体的特性」「日本国民の感性」ということを考慮する必要があったのではないかと思うのである。さらに言えば、比例代表制は、ただ闇雲に「好きなチームを選べ」というようなイメージである。

 

これ以上は書かないが、先述したような試合ルールでは、良い選手は育たない。同時に良いチームも育たない。思考停止している愛好者は、ただ試合に勝ったものを賞賛したり、批判したりするだけだ。しかし、それでは「より良い技術を見て感動する」また「より選手を見て感動する」という斯界が発展する種子が育たないと、私は考えている。さらに、そのような選手を排出するチームを支援していくシステムを作ることで初めて、より良い業界・斯界が形成されると思う。

 

要するにルールは、先述したような理念やシステムを具現化するという目的のためには、変更して良いのだ。否、むしろ、本質的、大局的、長期的にみて必要ならば、変更し続けなければならないのだ。そうでなければ、より良い愛好者(有権者)と選手(候補者)を育み、そのスポーツ自体(民主政治)を発展させることはできないであろう。

 

政治とスポーツは異なるというかもしれないが、スポーツにも政治性が内在し、政治にもスポーツ性、ゲーム性が内在するということは、少し考えればわかることだ。

 

また私は「人間が3人以上集まれば、そこには政治が生まれる」と極真空手の選手時代に実感した。要するにスポーツも社会も人間が行う以上、政治機能が内在するのだ。つまり政治は社会的な人間にとって普遍的な事柄なのである。ゆえに、政治を特別なことと考える必要はないと思う。スポーツと同じように考えるべきだと言えば、お叱りを受けるだろうか。むしろスポーツ以下に政治を歪曲しているのは、悪しき有識者、権力者、そしてメデイアである。私は、そのような有識者、権力者、メディアばかりではないと信じたい。

 

私の意見は、また私の所属する空手界も含め、あらゆるスポーツ、そしてグローバルな環境変化に適応しなければならない業界に当てはまると思っている。そして、業界・斯界(社会)を益するリーダーを輩出するには、ルール並びにシステム作り(土壌作り)が重要だと、私は考えている。

 

【良い社会というのは】

 

最後に、好きな言葉、概念ではないが、社会の勝者と思われる人たちは、ボクシングの村田諒太選手が言うように、責任を感じてほしいと思う。そう言うと、「甘ったれたことを言うな、全て自己責任ではないか」と言う者がいるであろう。しかし、私が言いたいのは敗者の代弁ではない。また、そもそも社会に勝者と敗者などいないと断じたい。そして良い社会というのは、より多くの自由を認め、不自由を廃するような、優しく信頼できる良いリーダーが権力を有する社会である。一方、そうでない権力者がリーダーである社会は良くない社会だということだけである。

 

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こんなんで終わってたまるか

 

実は数日前から腰痛がひどく、椅子に長時間座っていられない。膝の痺れで歩行がヨロヨロとする。金曜日にMRIを撮ると、ヘルニアだった。しかも2箇所ある。1箇所は過去の腰痛の原因だったもので、もう一箇所のヘルニアは膝にまで影響する箇所のようだ。また、今回発見されたところは、かなり大きなヘルニアだった。

 

木曜日は痛み止め薬も効かない痛みで大変だった。金曜日以降は、木曜日に普段お世話になっている治療院のトレーナーに体をほぐしてもらったお陰か、痛み止めの効果か、徐々にではあるが痛みは沈静化しているようだ。

 

ようやく膝と肩、肉離れがよくなってきて、これから再始動しようと考えていた矢先のことである。正直、落胆している。振り返ると、特に激しい動きをした記憶はない。以前からヘルニアだったのかもしれない。また、くしゃみでもヘルニアになるらしいから、加齢による劣化が原因のヘルニアの可能性もある。とにかく、身体の柔軟性の欠如が主な原因であることは間違いない。

ここでいう柔軟性とは、身体のしなやかさ、みずみずしさというように、私は考えている。とするならば、加齢とオーバーユースによる劣化、柔軟性の減少は否めないであろう。

 

今回、このことを皆に話すかどうか迷った。なぜなら、空手の先生の身体がボロボロだと思われると、極真空手のイメージが悪くなる。また身体能力に依存する極真空手に対し嫌味を言いたい輩にとって、悪口・極真空手批判の格好の材料になると考えるからだ。しかし、今私の道場で行っている稽古法は、極力怪我をしないように考えてあるし、身体を補強していくように改善を加え続けている。ただ、改善をすぐに行っているので、それをすべての指導員に伝えるには、時間がかかる。この空手武道通信は、その時間差を埋めるためのツールなのだが…。

 

また言いたくないことなのだが、極真空手のイメージのために、あえて言う。すべてのオリンピックスポーツ選手を眺めても、私ほど体を酷使した、アスリートはそう多くはないと思う(みんな引退が早いから)。もちろん、ただやみくもに身体を酷使したのではなく、結果も残しつつである。私の選手時代は長い方である。ただ長いだけではなく、10代の頃から、第一戦での選手生活であった。ゆえに、世界中の自分より大きい相手との数々の戦い。さらには、100人組手の準備と経験。また、90キログラム以上の体重で、100メートル12秒。10キロメートルが45分。垂直跳びは85センチメートル。極真空手における試し割り(破壊力)の世界記録を樹立(現在は更新された)。

 

自慢したいのではない。身体の高い出力レベルを長年維持し、それを駆使することが、どれだけ身体に負担をかけるか、そのような出力レベルを想像、実感してから極真空手を批評して欲しいと思うからだ。さらに非合理とも思われる、100人組手という荒業を行なった。一人2分の組手を連続100人繰り返す。本当にそれを経験した人は片手の人数もいまい。その際、腎不全で1ヶ月間もベットレストの入院生活を余儀なくされた。その結果、血液のヘモグロビン量が20%落ち、持久力にハンディを負った。それでも若い頃は、体力に余裕があった。1ヶ月の入院と闘病を続けながらも、世界選手権に出場できた。

しかし現在は…。

【私の特効薬】

その時の方が重症だとは思うが、身体的には加齢による劣化がかなり見え、また心理的にも道場の業務や家族に対する責任で息苦しい。

 

困難に落ち込みそうな時、私には特効薬がある。それは「開き直り」である。「やれるだけやるしかないではないか」と開き直るのである。つまり、困難に際して開き直れるか。そして、投げやりにならず、くよくよしないことが困難に際する時の私の「心構え」だ。その心構えでじっと耐えるのだ。

 

もう一つ、私が考えてきたことは、その機会(困難の)を活用して、これまでとは異なることをやることだ。

 

100人組手の後、入院を余儀なくされた時は、それまであまり興味のなかった歴史小説を多く読むことを試みた。もともと本は好きであったが、歴史小説はめんどくさい気がして、手に取らなかった。しかし入院時、家内から山本周五郎、司馬遼太郎を勧められ、その機会に多くの作品を読んだ。

 

私の読んだ歴史小説は長期的視点による物語を描いたものが多く、闘病の際にはそれが、私の短気を鎮めてくれる効果を与えてくれたと思う。

 

しかし今回は…。開き直るには中途半端である。脚が痺れながらも、まだ歩くこともできるし、身体が動く。さて、どうするか。

 

今、私にはやり遂げたいことがある。それは、我が空手道理論の完成と同時に優秀な門人(黒帯)の育成である。それをやり遂げなければ、これまで私がやってきたことは、徒労に終わるかもしれないと思っている。その意義は、私が体感した感覚を完全に伝えられないとしても、いつか解析できるように、型と理論、そして稽古法を残すことである。今、その夢と現実のギャップによるストレスが強い。

 

【ポンコツの身体ならば】

私はここ数年、身体の柔軟性を維持するためのトレーニングを実践してきたつもりであった。しかし、まだ足りなかったようだ。また、普段お世話になっているトレーナーに身体をケアしてもらっている時に良い話ができた。「ポンコツの身体ならば、その補強箇所を見つけ、それを補強することが大事だと思う」「今回、それを実践する中で、新たな補強箇所が見つかったのだと考えよう」。その補強は、結構、面倒臭いが、いつか誰かに役立つ時があるかもしれないと思っている。この原稿を書きながら、すでに座っているのが限界に達してきている。

 

【この機会に】

私はこの機会に、時間と体力に過度の負担をかけない勉強法とトレーニングを編み出し、実践したいと考えている。私はとにかく、やりすぎる傾向がある(理想主義者だからだ)。これからは、計画的に行動する習慣をこの際つけたい。そのような技術を身につけなければ、私の人生は徒労に終わる、そんな危機感がある。さらに銘記するつもりで、書いておく。時間と体力をより有効的かつ計画的に使う技術を身につけることとそれを実践すること。

最後に、何度も判定負けし、悔しさを味わった、若い頃に思ったことは、「こんなんで終わってたまるか」であった。もう若くはないが、若い頃の気持ちを思い出したい。

【仲間に感謝する機会としたい】

 

蛇足ながら付け足しておきたい。困難を感じる時はチャンスだということ。毎回優勝できると思い試合に挑戦しながら、優勝できなかった若い頃。傷病で練習ができなかった時。入院生活で動けなかった時。自宅で闘病しながら練習をしていた時。いつも、それをのりこえた時、気づきがあった。そして、その時に自分を支えてくれる仲間がいた。あらためて仲間に感謝する機会としたい。今も私の周りには仲間がいる。

 

今回心強いのは、スポーツ整形外科の分野で、今後日本を代表する医師となっていくと思われる間瀬先生と知己を得たことである(すでに膝の手術ではトップクラスだが、さらに上のレベルのリーダーという意味で)。「なっていくと思われる」とは、上からの感じで生意気な感じを受けるかもしれない。相変わらずの口下手と医師の世界に関しては無知であるから、あえて断言しないのだと考えてほしい。同時に私は全てに上からであるのも事実である。しかし、社会のニーズという基準で考えた時、間瀬先生の考え方と提供する医療は、社会のニーズをグリップしているのは間違いないだろう。

 

【私にはこんな体験がある】

また私にはこんな体験がある。15年以上も前のことだが、私は経営者の勉強会(盛和塾)でブックオフの創業者に知己を得た。たまたまその時、私の道場の近くにできたブックオフの店舗の感想を述べた。本好きの私は、現在も時々ブックオフを訪れるが、私の当時の感想は「古本屋なのにどこよりも明るくて本が綺麗」「感動です」と言った。その感想が気に入ったのかどうかはわからないが、私はブックオフの創業者にかわいがってもらった。

 

今から思えば、当時のブックオフのあり方は、世間のニーズをしっかりとグリップしたのだと思う。ブックオフは、その後、あっという間に全国展開を実現した。私は、そこからの学びを生かしたいと思ったが、思うようにはいかなかった。私の上から目線で生意気な性格が災いしているのだろう(これは改善するつもりはないと周りに言っておきたい。もし目障りなら、老兵は死なず消えゆくのみと考えている)。

 

病院と古本屋は異なる点もあるが、人を感動させることが、発展する秘訣だということは共通していると思う。間瀬先生の率いる八王子スポーツ整形外科には、そんな感じを受けるのだ。

 

 

 

さらに蛇足だが、うちの道場には鍼灸で世界レベルの先生がいる。大変心強い。私の腰が悪化した日、電話すると休診日であった。ネット情報によると西洋医学と東洋医学の先生は仲が悪いようだが(情報はあてにならない)、私には関係のないことだ。今後、両方の分野の権威から多くを学び、極真空手を武道として進化させたい。そう願う気持ち一つで行動していくつもりである。

 

▼パリのエッフェル塔の下で〜荻野氏と

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ご報告

私が月2回更新している、空手武道通信の編集後記を掲載します。

 

【空手武道通信 編集後記】

右脚の内側広筋の肉離れが、大体回復した。約1ヶ月ほどを要した。まだ、本調子ではないので2ヶ月ほどかかるかもしれない。今回、この肉離れのおかげで、骨格筋の構造を勉強する気になった。若い頃にも一度、興味を持ったことがあった。しかし、今ほど深刻に身体について考えなかったので、すぐに勉強をやめた。今回、私が頼みにするトレーナーにアトラスという会社が出している解剖図の3Dのアプリを教えてもらった。このアプリは役に立つ。今後少しずつ、骨格筋の構造について勉強したい。

 

私は現在、生意気にも私の肉離れがどのような要因で起こったかを想像できている。もちろん私の仮説であるが、大体のイメージはできているつもりである。私は素人なので、専門家の意見も聞かなければならないと考えているが、素人なるが故に、その情報は多岐にわたり、様々な角度で仮説を立てられると思っている。ずいぶん不遜だと専門家に嫌われるかもしれないので、言動に気をつけなければならない。しかし、何事も自分で究めなければ、気が済まないのが私の性分である。

 

さて言い訳がましいが、新たな身体の障害が加わったことで、空手武道通信の作成が進まなかった。私は常々、空手武道通信のボリュームを増やしていきたいと思っている。しかし思うようにならない。本日も出張がある。蛇足ながら、今回の「From AkiraMasuda」に関しては、もう少し推敲したかったが、とりあえず掲載した。ご笑覧していただきたい。

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ジュニア昇段審査と空手コミュニティーについて

 

【S君】

先日、ジュニア昇段審査が催され、一人の昇段者が合格した。

小学5年生になるS君である。彼は5歳の頃から増田道場に通い、7年間以上空手を続けている。

最近は妹も空手を始め、S君はリトルクラス(幼年から3年生未満のクラス)指導のお手伝いをするようになった。担当の先生によると、いつもリトルのクラスのお手伝いとジュニアの稽古、あわせて2時間強も頑張っているそうだ。そして彼は、所属道場ではない私の担当する少年部にも通ってきている。

 

S君は体も大きくない。また、そんなに感情の激しいタイプでもないように見受けられる。ただ空手の技術に関して言えば、型も組手も上手な方だ。また体も柔らかく、上段廻し蹴りも上手く使える。しかし、私がみる彼の一番良いところは、その部分ではない。S君の良いところは、空手が下手で全然できない子にも丁寧に教えられるところだ。

「おっ、優しく教えられるじゃないか」彼の指導の姿を見てそう思った。私が初めて、その光景を見た時、普段の手抜きは「大目にみよう」という気になった。

 

今回、彼は型審査に合格しているので、組手審査のみを行った。普段、型の練習も頑張っているが組手が好きなようである。これまで試合にもよく参加してきた。昇段審査では、年齢やレベルに応じて三人から十人の連続組手を行い、その内容を審査する。彼は余裕で連続組手をこなした。試合経験の豊富なS君にとっては3人連続など、簡単な課題(試験項目)だったのかもしれない。

 

S君の審査内容は良い方だったとは思うが、私が感心したのは、組手の内容ではなかった。私が関心したのは、型と組手の他に審査項目にある、小論文(少年部は作文)であった。彼の作文を読んで私は、彼に対する評価を上げた。なぜなら、彼がIBMA極真会館空手道の理念を理解し、かつ理念に沿った行動をしていたと思ったからだ。

 

「このような心構えなら黒帯を允可する価値がある」、私はそう思った。また、これから黒帯として精進を積みつつ、文武両道を心掛けていけば、将来楽しみだと思った。同時に、保護者の方が、しっかり指導しているなという感じがした。ゆえに、改めて子供にここまで空手を続けさせた、保護者の方に敬意を持った。また立派だと思った。更に言えば、空手にそこまでの価値を身いいだしてくれていることに、感謝と責任を感じた。

 

さて、脱線するが、S君の空手のレベルは、あくまで周りと比べて上手なだけであって、私はもっと上手くなると思っている。私はもっと丁寧に細かく技を覚えて欲しいが、そこまで厳しくは指導しない。少年にそこまでの要求をしないのが、これまでの私の道場の方針だ。というものの、時に私の指導は、より高度になることがある。当然、子供と私の意思の疎通が空回りする。

 

そんな時、私は我に帰り、適度なレベルに調節する。もし、もっとレベルを上げたければ、お受験塾のようにならざるを得ない。しかし、そのようなことをやる必要が基本的には空手にはないと考えている。誤解を恐れずに言えば、もし私に余裕があれば、選手養成機関を担当してみたい気もする。しかし、今の空手界には、未だそのような需要と価値を創出できていない。一方、子供達も大変である。最近の親は、実に様々な習い事をさせるようだ。

おそらく、若い頃に様々な体験を積み、健やかな身体の成長を促すのみならず、心も強く豊かに成長させて欲しいという親心があるからであろう。非常に素晴らしいことである。

そんな思いに応えるとは、チャンピオンになれるような子供を育てることのみではない。私は試合の順位をあげるよりも、空手道で自尊心を育むことが、より重要であると考えている。

【空手コミュニティーの中で】

私の道場における自尊心の育み方のポイントは、空手を共有する空手コミュニティーの中で自己承認の体験をさせることにある。

私のいう空手コミュニティーは、とても小さなコミュニティーかもしれない。しかし人間は、なんらかのコミュニティーで自己承認を経験しなければ、強く生きていけないものなのである。特に幼少期から思春期には、そのような体験が必要であろう。もちろん空手武道のコミュニティーに限ったことではないだろう。スポーツなどの部活動もそういう機能を持っているかもしれない。

断っておくが、ここでいう自尊心とは、空手が上手いということのみで獲得されるものではない。空手を通じ、自分が仲間にどのような貢献しているかを認識することで醸成されるものだ。言い換えれば、コミュニティーによる自己承認感である。

繰り返すようだが、私のいう仲間への貢献とは、「誰よりも上手いこと」により、みんなに刺激を与えることのみではない。

「誰よりも真面目なこと」により、その場に神聖さを醸成していること。また、「誰より明るく振舞うこと」により、皆を和ませることであっても貢献と言えると、私は考えている。

 

更に言えば、「目立たなくても、そこにいつもいること」により、その場に安心感のようなものを与えることも貢献だと思う。

もう一つ付け加えれば、「みんなより下手で試合も負けてばかりだけれども、空手を続けていること」も貢献のように思う。なぜなら、そのような者がそこにいるだけで、何らかの安心感を皆に与えているように思うのだ。もちろん、空手が上手な者の存在が、一番の貢献だという考え方もあるだろう。しかしながら、私はそうは思わない。そして皆に言いたい。

 

【もっとも大切なことは】

私は、コミュニティーには、確かにスター的な「空手の上手い者」の存在が重要だとは思う。しかし、もっとも大切なことは「皆で協力し、楽しく空手の練習をするという価値観の醸成」だと考えている。しかし、スター的な人間の存在は、そのコミュニティーの価値を高めることに多大な貢献はするが、一方で大切なコミュニティーの価値を忘れさせてしまうように感じる。

 

つまり私が言いたいのは、「貢献という価値」は、単一的な価値観で測るものではなく、多様な価値観で測るものだということである。そして、貢献を測る基とは、理念を核としつつ多様な個がつながりあって創出される、総体的な価値のように思う。かなり抽象的な話になった。平たく換言すれば、私のいう貢献を測る基とは、安心感の醸成と言っても良いかもしれない。要するに安心感を与えることが良いコミュニティーの核心だということである。しかし、そのような価値観を皆に理解させるには、指導者の指導力や信念が必要になるだろう、また子供に対しては、保護者の理解と協力がなければ困難が予想される。

 

蛇足のようだが、「いつもみんなと協力をせずに自分勝手にやること」にもなんらかの貢献につながる意味があるようにも考えられる。確かに観念的には、何らかの意味や貢献があると思いたい。大きなコミュニティーでは、そのように考えるべきであろう。しかし、小さなコミュニティーでは、そこまで包括すれば、そのコミュニティーの目標の実現ができなくなってしまう恐れがある。空手道場は小さなコミュニティーである。また、空手の上達や昇段という目標を前提としている。あまり多様な存在を認めては収拾がつかなくなる。ゆえに、そこまでのあり方を許容しない。ただ、道場の外では、なるべく大きな視点で人間をみたいと、私は考えている。

 

話を戻すが、審査合格発表の後、稽古でS君に会った時、昇段審査合格の労いと作文を褒めた。そして、頭によぎる経験上の知識があったので、S君に聞いた。「あの作文は親に手伝ってもらったの?」

S君は、「何を書くか決めてもらったのと、最後に見てもらった」と答えた。

私は少し「ガクッ」ときたが、親がしっかりと、我が道場の理念を理解していること。そして、書くことを考えてもらったと言っても、他のものより長い作文を丁寧に書いたS君は、やはり素晴らしいと思うことにした。

 

最後に、私は長年、空手道場を主宰してきたが、ようやく黒帯をもっと増やしたいと思うようになった。「今更?」と思う人が多いに違いない。若い頃の私は、適当に黒帯を允可することが嫌だった。現在も同じだが、ただ変わったのは、「みんなを黒帯にできないのは私の責任だ」と強く思っていることである。ゆえに指導方法などを見直し、なるべく多くの道場生が黒帯のレベルまで到達できるよう、カリキュラムや修練メソッドを改善したい。

 

また、より良い道場を作り上げるには、何より指導員の協力が必要だと思う。私の指針は、道場を家、道場生を家族のように考え、共に力を合わせることだ。そして、命がある内に高いレベルの空手道の創出を果たしたいと考えている。

 

 

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自分(増田・お前)に言う〜ある日の内省より

 

 

自分が恥ずかしい…。

たまに道場生の空手の下手さを嘆くことがあるが、それよりも自分の説明の仕方の下手さを嘆くべきことであった。そのことに気がついた今、自分が恥ずかしい。そして、穴の中でも入りたいような気持ちの中、静かに自分に言い聞かせている。

 

日頃私は、自分の説明の仕方の下手さを顧みないでいたかもしれない。それは本当に恥ずかしいことだ。今、「自分の説明の仕方を磨け」と自分に向けて言い聞かせている。

 

具体的には、「言葉の繰り返しは極力しない」「雑音的な言葉をなくせ」「用いる言葉を少なく」などなど。

 

さらに言えば、言葉を少なくし、もし相手に通じなければ「言葉の選択と用い方が失敗した」と、今後は考えたい。

 

もし、お前の考えが他人に伝わらないと感じたなら、「時間をおいて、違う言葉と用い方で説明しろ」と言いたい。そうすれば、相手が理解する可能性も出てくるだろう。

 

その場で、急いで相手に理解してもらおうとするから、言葉が多くなるのだ。

 

さらに自分に言い聞かせたい。「良い意味で諦めろ」と。そして「切り替えろ」。さらに「次の機会を待て」と。それでもまだ、前が「次の機会はない」と恐れるなら、その気持ちは「最悪の状態である」と肝に銘じるのだ。

 

それでも恐れが生じるのなら、伝えたいことを文字に書き落とせと言いたい。そして、気持ちを落ち着かせるのだ。ただし、人に読ませるために書くのではなく、自分の心を観るために書くのだ。書いて一息つけ。

 

また、自分のことを理解してもらおうなどとは考えなくて良い。そもそも、誰もが他者の考えの完全な理解などできないのだ。おそらく、個々が理解しやすいように変換しているだけだ。本来、自他は本当に簡単なことしか理解し合えないのだと思う。つまり、自他の理解とは、実は幻想と対峙するがごとく、実はとてつもなく困難なことだということだ。

 

要するに、お前がそのことを理解していないことが、強烈な恐れを生じさせている要因の一つだと思う。

 

それでは、どのようにしたら自他の理解が進展するのだろうか?

 

まずは簡単なことから伝えるのだ。また、できるだけ良いところを褒め、辛抱強く言葉を交わすのだ。そして、いつか相手の内側から、共通の言葉が出てくるまで我慢するのだ。また、相手の言葉の真意をもっと深く感じ取れるように訓練するのだ。とても大変なことだろうけど…。もう一つ、自分自身の内省に時間を取ることを忘れないようにしろ。おそらく、厳しい内省が自分を磨く基本だろうから。もし、それで苦しかったなら、映画でも観に行け…。

 

(ある日の内省より)

 

2017-9-17:一部修正

 

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【「観る力」について考える】

我が国の伝統的言葉に「面授」というものがある。面授とは、仏教用語で「文章などで広く教えるものではない重要な教えを、師から弟子へと直接伝授すること」コトバンクには、そう書かれている。

 

ただし、一方で「群盲象を評する」という言葉が示すように、面授を受ける側の判断基準や感度(格闘技に関する)が低いと、大事なものを捉えることはできないと、私は考えている。また、少し話が脱線するが、権威ある対象のそばにいながら、その真髄を学び切っていない人間のいかに多いことか。さらに言えば、大した権威でもないのに、権威だと思っている人間のいかに多いことか。こちらの方は、権威だとありがたがっている側の真意が疑わしい。あくまで私の少ない経験による知見だが。

 

また私は、たとえ文章であっても、捉えられる者には、大事なものが捉えられると思っている。あくまで一般論として、「百聞は一見にしかず」ということが言えるだけだというのが、私の考えである。

 

つまり面授を授かったからと言って、大事なことがわかっているとは限らないということ。また面授が望ましいが、面授にも「観る力」が必要だということを言いたい。

 

その「観る力」を養うことが稽古の本質であると、私は考えている。また、観る力の養成こそが、自己を進歩させる核となることだと考えている。

 

 

ここで、私がいう「観る力」についてさらに考えてみたい。

 

まず、先賢の教えを二つほど紹介したい。物事を見るということに関し、ある先賢は「見るではなく、観るのだ(見の目弱く、観の目強く)」と伝えた(宮本武蔵:武士・武芸者)。つまり、「見ではなく観だ」と。また、ある先賢は物事を見る際、「なるべく長期的に見ること、なるべく多面的に見ること、なるべく根源的に見ること」と教えた(安岡正篤:陽明学者、思想家)。

 

【私流の観る力】

さて、私流の観る力とは何か?大まかに言えば、科学的に見るということである。いうまでもないことだとは思うが、科学的ということは反証可能性が担保されているということである。また、科学的ということに誤解があるといけないので、あえて断っておきたい。科学的とは、実は想像力をとても必要とする在り方だと、私は考えている。

 

つまり私流の観る力とは、「時空間を超えて、その評価に耐えうる考え方や技術を追求するということを前提に、仮説を構築する力」その上で「その仮説を実証しようと試みつつ、その結果データ(実験・経験による結果データ)を収集し続ける力」。同時に「その結果データと仮説を照らし合わせ続ける力」。また「結果データと仮説を照らし合わせ、仮説の瑕疵や不備を修正し続ける力」。さらに、それらの力を総合した力を観る力と呼びたい。ちなみに「その結果データと仮説を照らし合わせ続ける力」が、観る力の中で最も重要のように思う。なぜなら、その照らし合わせるという過程の中で、「観る力」が養成されると、私は考えるからだ。

 

もし、私が考えるような「真の見る力(観る力)」があるとすれば、その観る力の養成には、長い時間と努力が必要だということが理解されてくる。つまり、データの蓄積が必要なのだ。

 

しかし、ここで一人の人間が集めるデータなど高が知れているのではと考える方は、まともな方だ。ゆえに、賢人は過去のデータを収集し、それを自分のデータに取り込むことを行なっているはずだと、私は考えている。

 

その方法の最も伝統的な方法が読書であり、その道の師につき、師から学ぶことである。そのことによって、体系だった、ある種の仮説、そして知見を自分の中に取り込むのである。しかしながら、師の著した書籍を読むということすらしなくなっているのが、昨今の現状である。そもそも読書というものをしなくなっている。

 

 

もちろん、最近では、インターネットが普及しているので、そこから情報を得るということが主流になりつつあることは知っている。ゆえに、読書は必要ないと言われる人もいるであろう。しかし、読書とインターネットから情報を得るということとは分けて考えた方が良いと思う。

 

その意味は、情報を得るということだけが、読書の効用ではないと考えるからだ。例えば、心を込めて出版された、優れた書籍には、優れた映画にも似た、感動があると思っている。もちろん、すべての書籍にはあてはまらない。それでも、その感動をもたらす何か(原因、構造…etc)を体感、理解することが大事だと、考えている(抽象的すぎるのをお許し願いたい。具体的に言い表すには次の機会に)。

 

一方、インターネットによる情報収集、獲得並びに発信はとても簡単で便利だ。しかし、その行為は「観る力」の養成がなされないまま情報量だけが増えるということになる可能性がある。また、そのことが意味することは、恣意的な情報が氾濫することと言っても良い。つまり、自己の仮説をしっかりと構築することと、それに対する結果データ(自己の実証経験)との照らし合わせを経ていない情報が氾濫するということだ。そうなると、インターネットという場(世界)、環境は、言葉に言い表せないくらい、恐ろしい情報の渦の中のような場(世界)、環境となる可能性があると思っている。

 

ゆえに、私はどんなジャンルの世界であれ、人間一人ひとりの「観る力」の養成を心がけることが急務だと思うのだ。そうしなければ、一つの情報で、暴力的な現象が起こることがあるかもしれない。

 

【最後に】

最後に、昨日始まった研究科の初日は、講習開始後、20分ほどで、私の右脚が肉離れを起こした(軽度の)。ゆえに、立っていられなくなり、椅子に座っての指導となった。結果、予定した稽古の半分ほどしかこなせなかった。また、私の動きを見せることができなかった。言葉だけでは、データが少なすぎる。もちろん、観る力に乏しい者には、「猫に小判」のようなことだとは思うが。とにかく、彼らのイメージ力では無理がある。見ていてそう感じた。

 

大げさに聞こえると思うが、私は遺言を作成するのと同じ気持ちで、デジタル教本を作成している。それがよくないかもしれない…。また、それ以外にも雑用がある。また、表現は悪いが腐りかけの身体を腐敗しないようにケアし、腐りかけだからこそ出てくる味(うま味)を追求している。

 

本当に百尺竿頭に一歩を進むが如くの毎日である。しかも、そのような気持ちでいればいるほど、「こんな程度にしか極められなかったか」と自分の未熟さに悔しさがこみ上げてくる。

 

2017−9−10:一部修正

 

▼生意気盛りの若かりし頃、今はおじいちゃん(笑い)

 

 

 

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