決定のための判断基準を考える
新型輸送機オスプレイの普天間基地配置に対する疑義が挙ってから数ヶ月が経つ。
私は、この問題を初めて耳にした時、先ずは沖縄の基地問題とは切り離して考えた。
配置推進派は、「これまでの新型輸送機オスプレイの事故は、人為的なミスで、機体についての構造的なミスはない(改善された)」と主張。一方の反対派は、「安全性が完全に確保されているか信用できない」。そもそも、「普天間は基地には不適切だ」というように主張。
私がこの問題を耳にした当初、推進派は論外(意味が分からない)。一方の反対派の意見も、配備を阻止するには無理だと感じた。なぜなら、私の問題を判断する基準、視点とあまりにも異なるものだったからだ。
そのように考えていたら、本日の朝日新聞に、元米国防次官補が「オスプレイの事故は人為的と言うが、それ自体が問題である」。「操縦ミスの許容範囲が非常に小さく、ほんの僅かなミスでも墜落に繋がる」。「ブラックホールなら、こうした事故はおこらなかっただろう」。と述べているらしい。
私が、思った通りではないか。要するに、人為的事故が非常に起こり易いこと自体がオスプレイの問題なのだ。つまり、オスプレイの事故は人為的な事故と言うが、そこが問題なのだということあを追及して、そこから配備を保留させるのが現時点での最善策だと私だったら考える。私は、操縦が難しいということが問題なのだと、初めに直観した。しかし、メデイアを含めた反対派は、そこで論争をしない。ゆえに、この問題の論点が理解できなかった(私があたまが悪いから理解できないのだと、オスプレイの問題はもういいと考えていた)。
反対派は、オスプレイの問題の本質を見抜かなければならない。この新型輸送機をアメリカ軍の理想通りに機能させるには、優れた操縦士の育成が必要である。アメリカ軍からすれば、それは望むところであろう。また、それを努力しているに違いない。しかし、それは日本を守るというより、実験場(訓練場)にするようなことなのだ。
そもそも、原発問題ではないが、機体に構造的な問題はないなんて、事故が起こるまで分かる訳はないではないか。常に問題は起こりうると考えるのが本当ではないか。
ここで、一旦は切り離した沖縄の基地問題を考える。
私は、沖縄の基地移転を単純に賛成する立場ではない。
ただ、沖縄の基地問題の本質は、すべてが一方的に決められることの理不尽さに対する嫌悪感ではないかと考えている。それが、時々起こる基地がらみの問題によって加熱する(しかし、どこの政府も国民に対し理不尽なものだ・・・)。
はたして、この問題の本質について日本の政治家は、本当に考えてきたのだろうか(考えた政治家もいたとは思うが、日本の政治システムの中では取り上げられない)?
私は、この部分は政治家が取り組めば、改善される可能性があると思う。しかし、それがならないのは、他の国際的な問題同様、日本の政治家、一人ひとりの当事者意識の低さであろう。或は、政治家の当事者意識を引き出させないようにするこの国の構造(システム)と、意思決定システムの貧困によるものかもしれない。
こんなことを書きたくないが、オスプレイを配置すれば、かなりの確率で大事故が起こるだろう。そして、多くの犠牲者がでる。しかし、いつも日本人はことが起こってから考える。そして、起こったことを深く考えずに忘却する。