壁を無くす? 武人の誇大妄想・・・。
空間を壁で仕切る事も必要である。独りの時間、それによって自分は創られるからだ。しかし、同時に壁がない空間も必要であろう。
なぜなら、壁がない空間の存在によって、冒険心、挑戦心が育まれる。
さらに、その冒険心や挑戦心から行動が生まれ、その行動は、他者との出会いを生む。そして、そこから自他との相互作用が生まれる。それが自他共創。自他共栄の始まりだ。
ここでいう壁のない空間とは、危険に満ちた未知の空間の事ではない。誰もが集い、語らえる交流の場である(公共空間)。それには、自己の尊厳を保つ事と同時に他者の尊厳を守るという約束が必要だ。つまり、個の尊厳を守るルールが必要なのだ。
私は、真に個の尊厳を守るとは、古今東西の誰もが公正だと思える価値観によって、人間を計り、そして観る事だと思う。そのことにより多様な個を真に受け入れることが可能となる。また、そのようなルールを人間が共に創るという事が個の尊厳を守るためには重要だと思っている。
そのようなルールは、歴史的、文化的な価値観に左右されないものだ。
私は、数学を基盤としたゲームのルールが一番それに近いと考える(ここは本来、丁寧に書かなければ誤解を生じる部分だ・・・)。
ゲームと言うと格闘技にそぐわない感じがするかもしれない。また、格闘技は果たし合いであり、命を賭した決闘だと言われる向きもあるかもしれない。
仮にそういう見方や部分があったとしても、個の尊厳を守るためには、ゲームのルールのように、皆(見る人を含め)が結果に対して、本当に納得できる事が大切だと言いたい。言い換えれば、負けた原因が誰の目にも明確だということが大切だ。
さらに、負けた原因を改善すれば、次回は勝てるかもしれないという期待を抱かせるような仕組みが、ここでいう、「ゲームのルールのように」の意味だ。
楽しめるゲームのルールは、すべてそのような要素を持っていると考える。はたして、空手や格闘競技はどうだろうか?フリースタイル競技はそのような事を念頭に考案した。
ここで、私が提案するフリースタイルは楽しくないと言われれば、それまでだろう。しかし、それならば、これまでの格闘競技が本当に、そこから得られる名誉無しで楽しいのかと問うてみたい。
私は、外部が作り上げた名誉だけを欲して競技を行なうのではなく、「楽しいから行なう」という感覚を大事にしたい。
例えば、競技に勝つことにより、名誉という報酬が与えられるとして、負けても名誉挽回できるという見込みがなければ、楽しくはないだろう。
フリースタイルは、先述のような楽しい格闘競技を目指している。言い換えれば身体技術を使ったチェスを目指している。
確かに初めは難しいかもしれない。また、駒は自分の身体を訓練し創り上げなければならないという要素も加わる。とても大変なチェスではある。
しかし、自分自身の心身をフルに使うという競技は、本当に楽しいものになるはずだ(いずれ、遊び、スポーツ、そして武道の共通項についての論文を書きたい)。
我田引水だが、フリースタイルには、いくつもの楽しさを生み出す可能性がある。
一つ、自分の身体で優れた駒(例えば、優れた駒は、一度に2歩進めるというような感じ)を創る事が楽しい。二つ、その駒を使って、作戦を練り、相手と戦う事が楽しい。三つ、自分という駒、そして考えた作戦で勝つ事が楽しい。四つ、負けても、敗因を分析し、作戦を練り直し、再チャレンジする。それが楽しい。五つ、一度は破れたものが、もう一度自分の身体と心(知性も含め)を創り直して勝つ。それが楽しい等々。
更にそのような楽しさを生み出す構造(仕組み)を格闘競技にもたらすことがフリースタイルプロジェクトの目的だ。
また、そのような競技の中で選手達は、相手は自分を磨いてくれる協力者であり、パートナーなのだと実感していく。
もし、個々に国や流派、家族というような壁を有する城があったとしても、公共の空間(誰もが納得できるルールで交流する場)において交流することが必要だと思う。そこから、人間は皆同じだという実感が生まれてくるのだ。
最後に、私の真の理想は、そのような実感が新しい社会システムを生み出すきっかけになり、武道人がそのような社会変革のリーダーとして加わっていく事だ。