岩井先生と柔道について | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める


 8月13日、14日と息子を伴い、母と祖父母の墓参りに石川県金沢市に行ってきた。私は機会があれば、息子との思い出づくりをしておきたいと思っている。また、郷里に住む父の姿を見ておきたい。なぜなら、感謝を実感すると、疲弊した心と身体が癒される感じがするからだ。

 私は、郷里の金沢に20歳まで住んでいた。その後、逃げるように金沢を離れた。その後、年を重ねるごとに、ふるさとが恋しくなっている。本当は頻繁に戻りたい。だが、日々忙しく、また金沢は東京から、あまりに遠く離れている。

 今回は、息子と車で金沢—東京間を往復した。休憩を入れながら片道9時間ぐらいかけた。初日は墓参りをし、身体が不自由な父、そして私の妹とその娘(姪)と食事をした。二日目は、息子と共に朝から兼六園を回った。その後、モダンアートの美術館を回った。金沢は美大があり、私が住んでいた頃から芸術が盛んな土地柄だ。

 次に兼六園近くの岩井柔道塾に向かった。岩井柔道塾とは、私の人生における恩人の一人、岩井柔道塾・岩井克良先生の主宰する柔道場だ。
 私は、その先生に対する感謝の思いを拙著「吾、武人として生きる」に書いた。遠い昔のことだが、私にとっては忘れられない思い出だ。そして以前から岩井先生には、お礼を言いたいと思っていた。だが、私は柔道をあきらめて空手の道に進んだ人間だ。岩井先生の数多い門弟の中には入らないと思っていた。また迷惑をかけた門弟の一人だと恥じていた。ゆえに先生に会いにいくことなどできなかった。しかしながら、拙著を上梓し、あらためてお礼を認めた手紙を送ったとき、先生から暖かい返事と言葉をいただいた。

 今回は中学生の息子と一緒だったので、息子に私の中学生時代のことを伝えたくなった。そして岩井柔道塾を息子と一緒に見て見たくなった。
 
 私は勇気を出して道場に電話をしてみた。すると、「岩井柔道塾です」と繋がった。
私は「岩井先生はいらっしゃいますか?」と尋ねると(先に自分の名前を名乗るべきだったかな・・)
「僕ですが・・・」と返ってきた。「空手をやっている増田と申します・・・。(もっと、大人らしいやり取りをしたかった。これじゃ、礼儀知らずの子供の頃と同じだ)
すると、岩井先生は「増田君か!」と応えてくれた。

「そうです!」と私は返事をした。嬉しかった。僕のことを覚えていてくれた。電話口の岩井先生の声は昔のままだった(私は先生の話し方、声をはっきりと覚えていた)。岩井先生は東京の中央大学を卒業されたせいか、昔から丁寧な話し方をする(東京弁?標準語?)。また、知的な感じだった。

 岩井先生は、これから約束があるということだったが、「少し時間があるので、いらっしゃい」と言ってくれた。
 岩井柔道塾に到着し、道場の中に入ると、とても驚いた。なぜなら岩井柔道塾が約35年前と全く変わっていなかったからだ。(勿論、建物に年輪は伺えるが・・・)

 日頃、記憶力に難があると思っている私だが、35年前の出来事が鮮明に思い出された。

「ここで道場を後にする際の挨拶ができていないと岩井先生に叱られた…」
「この畳の上で先輩に投げられた…」
「この羽目板に相手を何度もぶつけた(絞め技から逃れるために)」
「ここで岩井先生に増田君は才能があると褒められた」…。

 数々の思い出が鮮明に蘇った(私は言葉の記憶力には自信がないが、映像記憶には自信がある)。短い期間だったが、岩井塾での柔道経験は思春期の私を本当に救ってくれた。(柔道という武道は理念を含め、構造的にすばらしい)

 現在、先生は66歳。何年か前に身体を悪くされ、少し身体が不自由のようだ。実は私の父と同じ病院でリハビリをしていることを聞いていた。

 繰り返すが、私は岩井塾の門下生の末席にも座れないような者だが、本当に岩井先生と柔道には感謝している。今回、岩井柔道塾は先生のお父様が作られたもので築後60年以上経っていると聞いた。先生は「変わったのは窓がサッシになったことだけだ」と笑っていた。

 その道場には、オリンピック女子柔道で金メダルを取った松本薫選手のお祝いの懸垂幕が掲げられていた。松本薫選手は金沢出身で岩井柔道塾の門下生である。

【自他共栄の額】
 私は道場に入れていただき、まず全体を見渡した。その次に壁に掲げられた嘉納治五郎先生直筆の「自他共栄」の額を眺めていた。私が道場に通った頃も、その額を時々見て、その意味を考えていた。ようやく、嘉納治五郎師範の思想や志が理解できるようになった。

 できれば今回、岩井先生の思い出話や柔道指導者としての考えを聞きたかった。だが、先生は用事があるようだった。兎に角、私は柔道と岩井先生に私は救われた。長い年月を経たが、改めて柔道体験を振り返れば、私は柔道に関して、格闘技的に強いとか弱いとか、そんな次元で柔道を考えることは、柔道の意義や本質を理解していない、と私は思っている。

 岩井先生と柔道には私を救う力があった。更に云えば、私に岩井柔道塾を勧めてくれた中学の先生にも御礼を言いたい。柔道を教えられなかった、中学の柔道部顧問の先生が、私に岩井柔道塾に通うことを勧めてくれたからだ。

 今、人生を振り返り思うことは、目標を持って生きれたのは幸せだった。だが、永遠に目標を持ち続けるには、局面局面で目標を変えていかなければならないのかもしれない。
 しかし、いかに転化を繰り返しても、自己と人間に関する中心的、かつ根源的な感性を喪失することがないようにしなければ、と思っている。

 現在、私は空手家だが、長く柔道を模範としてきた。そして空手も柔道のようにしたいと考えている。ただ、空手家の多くがそれを望んではいないようだ。それは、柔道のどこが優れているかを空手家が理解していないからだ。

 僭越ながら述べておく。嘉納治五郎師範の優れているところは、柔道というものを人間教育のソフトとして最初から創っているところだ。私は柳生宗矩が企図した剣術流派も同様だと見る。そのような人間教育ソフトとしての目的と構造をもったものを日本武道というのだ、と私は考えている。

 更にそのような観点で日本武道を理解する空手家が少数派であることが空手界を表している。そのことが非常に残念だ。私は、これまで数々の柔道批判を耳にしてきた。今回のオリンピックにおいても、そのような声が再び上がるかもしれない。だが、私は柔道は復活できると信じている。その鍵は、伝統の再発見と革新との融合だ、と私は考えている。言い換えれば、古くて新しい柔道を再創造するのだ。そして、それができるのは日本人柔道家だと思っている。

 蛇足だが、今回の帰省では、息子とのよき思い出ができたと思う。例えば、普段、BGM程度にしか音楽を聴かない私だが、中学生の息子が、ブルーハーツやミスチルを聞くということを知った。私は世代的に、ブルーハーツの楽曲を聞かなかったが、彼らが有名なのは知っている。あえてブルーハーツのファンへの嫌味ではないと断っておくが「トレイントレイン」「終わらない歌」「リンダリンダ」等を聞いて、我が息子も「思春期か」と思った。そして、愛おしくなった。
 
 多い起こせば、私には強烈な思春期があった(30歳を過ぎても夢にうなされるような思春期だった)。息子と目線を合わせるため、また運転の眠気冷ましのために、私はブルーハーツを大声で歌い運転した(機会があれば、カラオケで歌ってみようかな…。多分歌わないと思うが)。助手席の息子は変な親父と思っていたかもしれない(変な親父は既に分かっているか・・・)。
 そんな中、私が気に入ったのは、ミスチルの「ギフト」だ。とても良い詞だと思った。悪い癖で、息子に「詞の意味が分かるか?」と解説を始めてしまった。
 息子の返しは、「ああつまらない。現国の○○先生の授業の方が10倍良いと叱られた。ついつい説教癖がでた。私は猛省した。だが、学校の先生の方が良いというのは良いことだ(笑)。学校の先生には頑張ってもらいたい。なぜなら、教師という仕事は本当に重要だと思うからだ。

 口はばったいが、私は社会全体で良い教師を支え、育成していかなければならないと思っている。また、空手や空手の先生も、一次的、一過性の勝利を教えるのではなく、最終的、かつ、総合的な人間としての勝利につながる価値観を子供達に伝えてほしい。そのためにも武道関係者が柔道や嘉納治五郎先生の批判ではなく、善きところを見習うようになってほしい。


増田章の『身体で考える』
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