今回の締めくくりは、イタリアのポルデノーレでのフリースタイル空手トーナメントだった。もっとも、今回のトーナメントの中身は、イタリアのアンドレア先生の道場とその親しい仲間だけのフリースタイル空手の交流試合である。
私は、その交流試合に我らが誇る荻野審判長を送り込んだ。荻野審判長は、少年クラス、女子エキビジションマッチ、成人のU-85kgクラス、O-85kgクラス、すべてのクラスの試合を審判した。荻野審判長には大変な苦労を掛けたが、その甲斐があった。選手達は皆、審判を信頼し、試合に全力を尽くした。試合後、選手や関係者からは、「審判がとても良かった」と評価を得た。
兎にも角にも、最初は大変である。同時に初めが肝心である。ゆえに、初めは選手のみならず、審判のレベルが重要だと考えた私は、荻野審判長に同行をお願いしたのだ。
イタリアでの記念すべき、初のフリースタイル空手の試合の実現、改めて、アンドレア先生に御礼を言いたい。
試合の内容に関しては、技術的には厳しい見方もできるかもしれないが、私は大変良い試合が多かったと思っている。
フリースタイル空手の評価は、現在のフルコンタクト空手愛好者が信じ込んでいる価値観を「物差し」にして計ってはいけない。誤解を恐れずに更に言えば、既存のフルコンタクト空手競技には、物差しは無いに等しい。あるのは、強さに対する曖昧なイメージだけだ。
では、私がいう「物差し」とはどのようなものか?正確には、「普遍化された判断基準」を意味する。だが、ここでは大雑把に、「どれだけ観客が競技を理解、納得できているか」という事だと考えて欲しい。勿論、観客に空手や武道の技術の細部は理解できない。
しかし、公の勝負、競技であれば、そこには普遍的な判定基準がなければ、公共のもの、言い換えればみんなが共感できるものにはなり得ないのだ。
イタリアの観客は、私の予測通り、ポイントが同点になれば、応援する選手のポイントのゲットを期待し、その期待に選手が応えた時には、「ブラボー」と歓喜した。
人の内面までが私に分かるとは言わないが、フリースタイル空手を見た観客は競技者と一体化し易かったはずだ。そのような競技者と観客との競技の共有が私の考える新しい武道スポーツの核心であり、スポーツのもつ良点なのだ。
僭越ながら、柔道もフリースタイル空手の判定基準に近くなると考えている。なぜなら、フリースタイル空手は加納治五郎先生が構想した柔道をモデルにし、更にそれを発展させた武道、そして競技システムだからだ。(柔道も技有りを5点、1本と試合終了を10点にしたら良い。それを基盤に指導や有効、注意を得点化し選手に与える。それを、リアルタイムで観客にスコアボードでボールゲームのように伝えるのだ)
私の考えでは、スポーツには観客の納得と理解が必要不可欠だ。その要素がスポーツを公共的文化財ならしめる。その要素を武道と相容れなという人達には、いずれ論文を書いて、その武道に対する曲解に対抗しようと思う。
勿論、フリースタイル空手は、武道スポーツという新しい領域を開拓する訳であるから、そのような封建的で石頭の連中とは、関わらなくても良いと思っている。
断っておくが、私は日本の伝統文化を愛している。そして伝統的な武道のあり方も活かしたいと考えている。
例えば、私の統括する流派はIBMA極真会館である。そこには伝統技の修練という今後も変えない修練領域がある。その上で、IBMAという協会を通じ、新しい武道スポーツの創出と武道人の育成を目標に掲げた活動を行っているのだ。
そのように、伝統の空手道の継承と新しい試みを併行させている。要するに、封建的、民主的とステレオタイプに物事を考えるのではなく、スポーツと武道とに内在する共通性や普遍性を活かしたいと考えている。そして、現代社会において実用的かつ有意義な新しい武道を創出したい。
話を戻せば、今回のイベントにおいて、アンドレア先生とその道場生、そして荻野審判長が汗だくになってフリースタイル空手に取り組む姿には、心に残るものがあった。
そして、私はこのプロジェクトを絶対にゴールに導かねばならないという信念を強くしている。
その信念が強いゆえに、私の言動が、時に審判長や選手に厳しく感じる事も多いと思う。しかし、内側から「もっと完璧に」という声が聞こえるのだ。
正直言って、私が審判をやったら荻野審判長ほど上手くできないかもしれない。選手は本当に一生懸命だった。普通なら何も言う事はない。しかし、私は「まだまだできる」と仲間を鼓舞してしまう。
なぜなら、フリ—スタイル空手プロジェクトは、映画作りのようなものだと考えているからだ。私は、映画監督兼脚本家である。大変に稚拙な例えゆえ、誤解される向きもあるかもしれない。補足を加えると、選手、審判、関係者、観客は、すべて映画に登場する役者である。
この例えで言いたい事は、すべて私の手中にあると言う事ではない。そのような意味にとらえないで欲しい。伝えたい事は、「感動する映画をみんな作る」というイメージである。
その映画が出来上がった時、スクリーンに増田章がいる必要ない。その映画に映っているのは、選手、審判、関係者、観客だけであるのが私の理想だ。(勿論、裏方も重要である)
そして、監督である私は、その映画の一コマ一コマが、空手愛好者でない人が見ても感動する絵になるよう私は厳しく指導している。
なぜなら、フリースタイル空手プロジェクトを自己満足で終わらせたくないからだ。それには、繰り返しになるかもしれないが、空手を知らない人を如何に惹き付けていくかを考える事が重要なのだ。
また、脚本も私が書いていると言ったが、脚本は、創り変えていっても良い。皆の良いアイディアがあれば、付け加えたら良いだろう。ただ、「エンディングのイメージ」だけは、忘れないで欲しい。
フリースタイル空手プロジェクトが目指すエンディングのポイントを挙げる。
先ず、皆がフリースタイル空手を通じ、相手は敵ではなく友達だという事に気づく。次にフリースタイル空手の愛好者には敗者も勝者もいないという事、そして、自分自身で経験し考えることが楽しむということだと気づかせることである。
それが私の考える「より善く生きる」ということであり、「拓真道」の真髄でもある。
そのようなエンディング、すなわちゴールに空手や武道が到達した時、多くの空手愛好者が空手にもっと誇りを持てるようになるはずだ。
最後に、フリースタイル空手のキーワードは、「開放性」「公正性」「創造性」である。みんなの眼にそのキーワードが映るようになったら、このプロジェクトは成功するだろう。(映らなければ失敗だ・・・)
イタリアのトーナメントの後、夕食をとるため私と荻野審判長、アンドレア先生らは町にでた。我々がレストランについた時、我々を祝福するかのように教会の鐘が鳴り響いた。その時、私は大好きなこの歌を思い出した。(和田アキ子さんが歌っています。2番目の詞も好きです。でも、この詞の掲載は著作権侵害になるかな~?)
「あの鐘を鳴らすのはあなた」
詞:阿久悠
あなたに逢えて よかった
あなたには希望の匂いがする
つまづいて 傷ついて 泣き叫んでも
さわやかな希望の匂いがする
街は今 眠りの中
あの鐘を鳴らすのは あなた
人はみな 悩みの中
あの鐘を鳴らすのは あなた
私はこれまで、何度か「空手」をやめようと思った。誤解を恐れずに言えば、今でも「空手」に絶望しそうになる。
でも、人生の最期にもう一度だけ「空手」、そして「フリースタイル空手」に賭けてみようと思う。仲間を信じながら・・・。
フランス、イギリス、スペイン、イタリアの友達に感謝。