稽古とは何か | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める



稽古とは何か?

【岡山出張と伝統形の撮影】


日曜日、岡山で行なわれたフリースタイル空手競技の交流試合を視察した。時間がもったいないので、私は土曜日に岡山入りし、伝統形の記録を行なった。記録というのは、伝統形の動画教本の撮影である。動画の教本といっても、簡易的なもので、初心者に伝統形を教えるための補助とするものである。



これまで、私の道場には、紙の教本のみで、動画の教本はなかった。今後は、動画教本の製作にはいる予定だが、なかなか時間の調整ができない。



今回は伝統形の練習が不足していた。また、身体の調子も良くない。しかし、そんなことを言っていつも後回しにしていたら、どんどん身体が動かなくなる。不出来を承知で、道場生向けに伝統型の動画を記録した。この動画は、ウエブサイトを使い、会員に閲覧、活用して頂く予定である。



【普遍性とは】



私ももうすぐ人生50年を迎える。すでに伝統形のみならず、技の切れ等は、若い人、練習を良くする人には、かなわない。それが自然だ。しかし、私の仕事は、道場生が空手道に上達していく道筋を示すことである。



そして、武道哲学を伝えることを私の生きた証としたい。その武道哲学とは、私の空手体験とそれに関する思索によるものだ。



ビデオカメラの発達により、形の修練はいつでもどこでも、誰もができるようになるだろう。そして、技の切れは、皆、私を上回るであろう。しかし、重要なのは、私の空手体験に内在する普遍性を伝えることだという想いがある。そして、それを理解する道筋として、フリースタイル空手プロジェクトがある。それは、普遍性という概念が空手という事物にのみならず、すべての事物に繋がる道を掴むことになると信じるからだ。



私は今、身体の衰えの中で、伝統形の稽古を通じ、反復練習の重要性を感じている。そして、我々が稽古と呼ぶ行為の本質は、普遍性を追求する行為ではないかと思った。



普遍性とは、私の武道論における鍵概念(キーワード)のひとつである。



その「普遍性」を私流に言えば、すべての人間が有する共通原則である。それは、自己の中に堆積している文化的生成物ではなく、それらが生成されるところの原則である。私の確信では、それらは、人間共通であり、否、それが人間を創っている。



そして、共通原則を有しながら多様なのは、その歴史的、文化的な身体性によると私は考えている。ゆえに「人間は皆、同じ、かつ異なる」ということになる。



また、小難しいことを書いてしまった。ここで言いたいことは、武道修練における私のガイドラインについてである。



空手道修練における私のガイドラインとは、人間としての普遍性とは何かという「問い」である。私の空手道は、自己の歴史的、文化的な身体性を切り拓くことにより見つけだしていくのだ。



そこには、伝統技や組手技、古典や現代というように名付けた殻が破れ、純粋な生成と創造の命が現れてくるはずだ。



【より善い人間形成が実現】 



話をもどすと、なぜ、伝統形の修練が普遍性を追求する行為なのか。それは、自己の意識と反復練習が形態を創っていくという、原初的な人間性を確信する行為だからだ。また、その人間性が人間としての共通原則であり、普遍性ではないかと考えているからである。



そして、そこを理解できれば、より深い人間形成が実感できるのではないかと考えている。



人間以外の多くの動物は、自己の意識に関わらず、その行動形態はある程度決まっている。勿論、人間にもそのような部分がある。しかし、意識的な活動により文化を形成し、文明を創造していく、他と異なる部分を有している。



そのような人間のあり方を俯瞰できて初めて、人間形成なるものを、真に能動的かつ主体的に行なっていけるのではないだろうか。



学者でもない私が、いい加減なことを言っている。しかし、私の体験からは、先述のような人間のあり方が、最も人間的な部分だと思われる。



つまり、人間形成の多くは、意識体験の反復とその修正によってなされるのではないかということだ。つまり、人間形成とは、他者との交流による体験を反省することである。



現在、多くの空手団体が、空手は身体を鍛え、心を育むと、人間形成を抽象的に唱えている。正直言うと、その意味を皆、本当に解っているのだろうかと思っている。



私は、自分自身が、その意味が本当に解っているとは思えないから、考え続ける。身体を使いながら。



そして、その中で思うのは、やはり考え方を何度も吟味しつつ、時には修正していくものが人間だと思う。そして、それができる可能性を有することが人間の本質であり、人間としての普遍性だと思う。



一方、これが絶対だと唱えるのは、手っ取り早い、他者の支配の受け入れ、と同時に他者の支配が本質だと思ってしまう。



しかし、それも人間の自然なあり方かもしれない。しかし、そのような構造を有するのが人間だと理解してこそ、自己の解放と同時に自立と自律が実現するのではないだろうか。また、多様な人間の和解が実現すると思う。



要するに、私にとって伝統形の修練は、伝統技の保存のみならず、自己の身体(心を含めた)の構造を知る勉強なのだ。



それを稽古という。