普遍妥当なルールとは、どのようなものか? | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

先日、IBMAの活動支援を皆様にお願いするための草稿を掲載した。



それに対し、「より普遍妥当なルールとは何かについて、より解り易く書け」と、フィードバックを頂いた。40字以内でと言われたが、書いてみると、10倍近くもの量になった。



これは、宿題とさせて頂くことにする。今後、時間が捻出でき次第、再考する。



一応、その長文も掲載しておく。それでは、また・・・。



 



【この間の加筆修正部分】



IBMAは、新しい武道スポーツを創設するプロジェクトを実施しています。



その目的は、世界中の人達との交流を盛んにして相互理解を進展させ、その多様性を受け入れることで互いを尊重し合えるようになることです。



その目的のために、サッカーに次ぐ程、世界に広まっている空手を手段にしていきます。しかし、多様な言語や文化を有する人達が、先述のような「交流—理解—尊敬」を実現するには、より普遍妥当なルールがそこに必要になるはずです。



【普遍妥当なルールとは、どのようなものか】



普遍妥当なルールとは、どのようなものか、ここで少し説明します。



私が、空手をオリンピック種目に掲げ始めた頃、「スポーツと武道は異なり、武道は日本の文化、精神である」。そして「それを理解しようとするものだけに武道は伝えれば良いのだ」との主張を受け取ったことがあります。



しかし、私が考える武道とは、命懸けの真剣勝負であり、いかなる相手に対しても、自己を護れるものでなければなりません。



真の戦いの場に、自分のルールだけが絶対だという考えが通るものでしょうか。その結果は少し考えれば解るはずです。確かに、そのような言い分は、文化を護るという気持ちとしては理解できますが、武術、武道としては、完全に本質を喪失しています。



私の考える武道とは、あらゆる他者と自己との関係を活かしていく道です。ゆえに、真に武道を体現するならば、あらゆる文化圏の人達と和していくことが可能でなければなりません。



私は、他者と和する極意は、相手のルール・原則を瞬時にして理解することだと考えています。それは、難しいことではありません。それには、より普遍的な原則を基盤にして相手を観れば良いのです。観るとは「計る」と言い換えても良いでしょう。



では、より普遍的な原則とはどのような原則でしょうか。私の現時点の考えでは、「強いか、弱いか」というような原則ではなく、「多いか、少ないか」というような原則のことです。それは、物事を定量化することです。すなわち数字で相手を計り、理解することなのです。その上で定量化できない他者の主張を受け入れていくのです。異論はあるでしょうが、そこを基盤にするのではないと、異なる価値、意義(意味)を融和、和解させることは難しいでしょう。



IBMAが実施する「フリースタイル空手プロジェクト」とは、先述のような普遍的原則を基盤にした競技ルールを創ることでもあります。