フリースタイルカラテ・オープン2011を終えて | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
【フリースタイルカラテ・オープン2011を終えて】

フリースタイルカラテ・オープン2011を終了した。
大会前、場所の変更、フリースタイルカラテの実施等、初めての試みが含まれた。また、イタリアセミナーの準備等が重なった。
正直言うと、体調がすこぶる悪い。(ここ何ヶ月か、休む間もない)
10数年前、初めて大会を主催した時は血尿がでた。

どのような事でも、高い理想を追い求めれば、大変な作業になる。大会も然りである。

最近は、人に自分の理想を強制しないようにしている。身内には、もう少し生活の足しになるような努力をして欲しいと言われる。(人から見ると誇大妄想的な理想を追い求めているからであろう)

さて、フリースタイルカラテ・オープン2011は、TSルールのプレゼンのようなものである。

TS ルールとは、競技判定にポイント制を導入した。ポイント制と云ってもフルコンタクトが前提であり、打撃技によるノックダウンもある。

TSルールについてはこれまでブログやサイトで多く述べてきたので書かない。

今回、TSルールによる「クラシックスタイル」と「フリースタイル」のクラスを実施した。結果はルールとして機能したと考えている。

しかし、それが観客の理解を得られたかどうかは、意見を聞かなければならないところだ。

ここで数名の人達の意見を報告する。まず、カラテをやっていない人に聞いた場合、フリースタイルが面白かったという意見がほとんどだった。
また、「投げが決まっているのにポイントが決まらないのは不自然だ」という意見があった。

次にカラテをやっている人に聞いた場合、カラテへの取り組み方の違いでまちまちだった。

例えば、カラテを指導するような立場の人の意見として、「掴みは無い方が良い」というのがあった。
また、「旗判定なら本戦で勝っているのに、ポイント制だと延長戦になる」というものもあった。

前者の意見に関しては、確かに倒し技を決めても、残心がなければ無効というのは、格闘競技として納得がいかない向きもあると思う。ゆえに早急に審判委員会の意見をまとめ上げた。

その結果、相手を倒した場合、残心があれば「3点(有効)」、残心が無ければ「1点(効果)」とすることとした。最終決定には、しばらくの間は意見を集め、会議で決めることになるだろう。

後者の、掴みに関しては、関係者の中でも意見が割れている。しばらく、検討が続きそうだ。

また、ポイント制に関しての意見については、私の意図を理解していないので後で説明したい。

ここで、皆さんにも意見を伺いたいところだ。
フルコンタクトカラテ競技に掴みが認められないのは、乱暴な言い方を許してもらえば、「見栄えが良くなくなるからである」
それは私にも解っている。

しかし、なるべく制約を無くし、多様な状況にカラテ家を対応させることと多様な格闘技術を生み出すこと。また、多様な格闘技者を参加可能とすることなどがフリースタイルカラテの目標でもあった。ゆえに、時間制限などを設けて許可したのだ。

しかし、選手のみならず審判も慣れていないので、掴みを制限することが上手くできなかった。それが、見る人に違和感を与えたのかもしれないと思っている。

しかし、それも映像を見直したり、あらゆる角度から検討したいと思う。
検討のポイントは、「見栄え」と「格闘技性」のどちらを取るかである。
共通の目標は、より多くの人にフリースタイルカラテを楽しんでもらいたいということである。

最後に、「旗判定なら本戦で勝っているのに、ポイント制だと延長戦になる」
という見方について説明したい。

私が考案したTSルールとは、ボールゲームを参考にしている。
つまり、有効な攻撃技術(戦闘技術)の数値による判定である。

そのことにより、選手のみならず観客も戦闘状況の把握を試合の最中にできるようになる。そして、それが選手の行為(試合)を主体的かつ能動的なものにする。言い換えれば、本当の意味で自分の判断と考えで選手が試合を行なうことができるようになるということだ。

これまで方式(試合ルール)では、選手のみならず観客も、最後の最後まで審判の判断基準を念頭におかなければならなかったし、それが選手や観客の印象と食い違うこともあった。最近は、そのようなことが少なくなったみたいだが、本質的には変わってはいない。

実際の戦いは、相手の戦闘力を如何に喪失させるかである。百歩譲れば、誰の眼にも明らかに優位に立つことが勝利といえるだろう。

TSルールにおいても戦闘技術の判定に関して完璧ではないかもしれない。しかし、戦闘技術の優劣を判断する「物差し(基準)」をあらかじめ選手のみならず観客に与えている。その理由は、審判が印象ではなく「物差し」を使い、なるべく正確に試合を計る(判定する)ようにするためである。

そこに、間違いがあれば「物差し」「を元に検証すれば良い。一方、これまでの審判の印象で決まるような判定方法では、判定に納得いかなかった場合に問題が解消できない。

つまり、これまでは「物差し(判断基準)」が不十分、否、なかったので、審判による判定の相違は、主観の相違としてしか検討できなかった。(また、うやむやにされてきた)

そのようなことが、これまでのフルコンタクトカラテ競技方式の本質的問題点だった。そして、そのことが選手の格闘技術を向上させない原因だとも思う。
ここまでしつこく云っても解らなければ更にいたい。


野球でもサッカーでも良いが、サッカーを思い浮かべて欲しい。
サッカーの試合で、一方のチームが10回シュートをした。もう一方のチームは2回だとしよう。どちらも得点には繋がらず引き分けとなった。

先述の意見は、これを旗判定だったら、10回シュートした方の勝ちとなると云っているのだ。

私は、こう思う。これが2回しかシュートをしていないチームが1点入れて勝ったとする。そうなれば、文句をつけられないのだが、これまでのフルコンタクトカラテの試合では、点が入らず引き分けの試合では、10点シュートした方を勝ちとしてきた。

その方法は、打撃力のない少年部などの試合を行なう際には有効かもしれない。
しかし問題は、空手競技のエキスパートを養成する成人のクラスの試合でもそうであることだ。

ここで、なぜ従来のフルコン・ルールは試合の印象によって優劣を判定せざるを得なかったのか考えてみたい。

答えは簡単である。従来のフルコンタクトルールは、寸止め方式に比べれば、優劣が判断し易いと考えられたが、選手が試合になれ、タフになると、打撃技が決定打とはならなかった。丁寧に言えば、本来、格闘技が目指すべき相手戦闘力を奪う、ノックアウトが生まれにくかったのだ。

その理由には、「選手の打撃に破壊力がないこと」や「突きによる頭部打撃を禁止したこと」等が考えられる。一番は、突きによる頭部打撃を禁じたルールにあるであろう。

しかし、従来のフルコン・ルールが頭部打撃を禁じたことの意義は理解できるが、判定方法の工夫を怠ったことは否めないと私は考える。

話を戻すと、サッカーでは、どんなにシュートを多く打とうが、また、野球でもどんなにヒットを打とうが、点が入らなければ意味がない。

一方、シュート数が少なく、また、ヒット数が少なくても確実に得点できれば、試合は勝利となる。

私は、そのような価値観の方がより人生の真実に近いと思う。
例えば、私の好きな野球で考えてみる。

「野球は人生そのもの」と野球の達人が言う。野球では、明らかに実力が上でも負ける時がある。そのような現象を掘り下げると、偶然の1球、一発が、必然の一球、一発になる。そのようなことが先述の「野球は人生そのもの」そして、「野球は面白い」という言葉の例であろう。

それは、そのように競技をより深く反省し、その中に人生に繋がる普遍性を掴むことが、野球の場合、可能となるということでもある。

それが、競技を神聖なものとする。

つまり、どんなにヒットやシュートを打とうが、点が入らなければ駄目だというように競技の判断基準を設けなければ、厳しい反省が生まれ無くなる可能性があるのだ。

もし、選手に点を入れる力がないというのなら、それは競技をするレベルではないのかもしれない。また、少年部などダメージによって相手の戦闘力を奪う力のない人達には、これまでのルールでも良いかもしれない。
しかし、それは格闘技の実力を測る方法ではない。

そして、一番良いのは、空手競技を点が明確に入る競技にすることなのだ。
それがフリースタイルカラテ・プロジェクトである。

説明に疲れてきたので、これ以上は論文にしたい。
要するに、「従来のフルコンタクトルール」の判定方法では、どうしても理不尽な判定になる可能性が高いと思う。理不尽というのは合理的ではないということだ。
人生は合理的ではない。非合理だという方にはこう言いたい。確かに人間は非合理な面がある。また、人間社会や人生も非合理に見えるかもしれない。

しかし、自然が生み出す非合理性と人間が生み出す非合理性を分けなければならない。私は、人間が生み出す非合理性は、なるべく改善するように努力すべきだと思う。
そして、自然が生み出す非合理性も、よくよく考究すれば、合理的なものである可能性が高いと私は考えている。つまり、人生は合理的なのだ。私はそのように看取している。

最後に乱暴な言い方をすれば、これまでのフルコン・ルールでは、競技が「美人コンテスト」と同じになる。
美人コンテストは、どんなに基準を設けても、結局は人間の好みの問題となるのだ。私は、美人コンテスト程、時代錯誤なものはないと思っている。そんなものはしなくて良い。好みは一人ひとり違って良いのだ。

また、美人コンテスト程、人間性の疎外を感じるものはないと私は考えている。おそらく反論はあるだろう。

なぜ、そこまで言うかというと、それを行なう人間のこころに、物事をシンボル化する習性が見て取れる。また、シンボルを持ちたいという習性を見て取るからだ。

それを完全になくすことはできないかもしれない。しかし、それが物事の本質を掴めなくすると考えている。言い換えれば、思考能力を奪っていると考えている。

僕は、サッカーや野球等のスポーツには、人間の思考力を開発する働きがあると思う。また、本来は無意味とも思える人生により善い意味を与える。言い換えれば、人生の意味の開拓になると思っている。

私は、残り少ない人生を生ききるにあたり、人生の価値や意味を見直さなければならないと考えている。

それは、競技と言う価値や勝負という価値も含めてである。

そのようなことには、矛盾点がつきものだ。しかし、私は競技と言うものの目的は優劣を決めることではなく、自他と真正面から向き合い、その関係性の中から、真の自分を掴み取ること。また真の人生を掴み取ることだと考えている。

フリースタイルカラテ・プロジェクトでも再三云ったが、そこに敗者は存在しない。

私は、人生とは、意味の生成のゲーム(遊び)のようなものだと考えている。そして、自他ともにそれを楽しんでいくことが、これからの社会をより善くする鍵だと考えている。


かなり、長文になった。現在、フリースタイルカラテセミナーのため、イタリアを訪れている。ジェットラグ(時差ぼけ)のため、朝方早く目が覚めたので一気に書き上げた。これからは、普通のブログに挑戦しようと思っている。(イタリア紀行みたいな感じで)

イタリアの空手家のフリースタイル・カラテプロジェクトに関する、想像以上の理解に、体調が良くなって来ている。食べ物もおいしい。(少々、塩味がきついが)