拓−真−道(Taku-shin-do) | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
【拓-真-道】

ここ1ヶ月程、大会とイタリアセミナーの準備等でブログを書く時間を捻出することができなかった。実は、その1ヶ月から2ヶ月程の間に、非常に面白い体験をした。これは、ブログでは書けない。書ける時が来たら書きたいと思う。

さて、大会は数日を待つこととなった。大会終了後はヨーロッパの方へ出向く予定だ。思索の時間を持てるまでには、もう少し辛抱しなければならない。

そんな中、兵法研究の勉強仲間からメールが届いた。某大手出版社の編集者である彼から、時々、仲間宛に有意義な情報が届く。

勉強会における彼は、多面的に物事を分析する面とホットな面とを併せ持つ男である。
その彼が、立川談志師匠の訃報に際し、談志師匠の生前の言葉を教えてくれた。
正確には、立川談志師匠の弟子の談春氏の著書からの引用であるらしい。

今回、談志師匠の言葉に非常に感銘を受けたので、それを紹介すると共に私の雑感を述べたい。

「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。

本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人聞はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩(やから)の固まりみたいなもんだ。

だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」
                   ーー立川談春「赤めだか」(扶桑社)より

私は、友人からのこの言葉を私へのエールと取った。(私は長年の苦労で、何事も良いように取るようになっているのかもしれない・・・)

私はいつも死を近くに考えて生きている。一方で、かなり楽天的に生きている。

立川談志師匠の言葉は私の考えと同じだ。ただ、世間は談志師匠の言葉の中に示された人生の普遍性を読み取れないと思う。

なぜなら、多くの人が談志師匠の言葉のようには生きてはいないから。むしろ逆のように見える。みんな「長いものに巻かれろ」式で受動的だ。

話は変わるが、今度の日曜日に行なわれるフリースタイルカラテプロジェクトのイベント(大会)は、私にとっての拓真道の実践と言っても良い。

「拓真道とは何か」。拓-真—道の「真」の意味するところは、「現実、すなわち事実を通じ、どのように自分を実感するか」ということである。それがリアルということ、「真実」であるということである。

しかしながら、真実とは人の見方、感じ方のことであり、多面的かつ多様なものだと考える。ゆえに、多面的かつ多様な真実の中に真の真を観みるとは、その中に内在する普遍性を掴むことだと考えている。

それが「道」を求めること、事実に対し普遍性を求めることである。また、事実を安易に受け入れるのではなく、真正面から受け止め、それを乗り越える努力をする。言い換えれば、事実に挑戦することが、私がいうところの「真を拓く」、すなわち「拓-真」の意味するところである。

繰り返すようだが、自分自身が本当に納得できる真実に挑戦する。それが真を拓くことである。そして、人間が実感する真実の中の普遍性、それが道である。

補足を加えると、人間は道と一体となることで、相対的な存在から絶対的な存在になるのだ。
私はそのように考えている。

つまり、拓-真-道とは、人間がその人生の中で、自分自身を真に掴む生き方を指し示している。

久しぶりにブログを更新したと思ったら、皆が引くようなことを書いている自分が、人生の末期症状にも感じるが、また一人、また一人とすばらしい人間が逝く中、こんなことを書きたくなったのだろう。

蛇足ながら、拓真道を追求する私だから、お金よりも地位よりも「良き思い出」を大切に思っている。

例えば、家族や友人等と時間を共有するということ、また、仲間と夢を共有するということ、そんな「良き思い出」が人生の最高の価値だと考えている。

私は、そのような「良き思い出」を汚さないように生きていきたい。