これからの空手〜新しい武道スポーツをデザインする、最終回 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
【これからの空手~敗者は存在しない】

先述の武道哲学を基盤に空手武道を植物に例えてみる。経験的、歴史的に創出された技術や理論などは、「知識」のようなものであり、葉であり花に例えられる。

そして「智識」に例えられるものは根であり、身体感覚から引き出されるものだと思う。

私が構想するのは、日本武道が人間の歴史、文化の中で大樹として残ること。また、花を咲かし人々の心を惹き付けるのみならず、実を産し、将来の世代に種子を残していくようになることである。

しかし、見事な花、実を産すためにも、深く根を張っていくことが重要だと思う。

植物の種類も様々であるが、現代における武道は、花も実もある大樹に育ったのであろうか。それとも雑草のようなものなのだろうか。

大樹ならばもっと社会に貢献できるよう大きく育って欲しい。もし雑草であれば、時代の変遷と共に除去され続けることも覚悟しなければならない。

また花壇に咲き誇る花ならば、それも良いだろう。しかし、私は花壇の花よりも野に咲く花のほうが好きだ。

繰り返しになるが、私が空手武道に望むのは、社会に深く根付く大樹になることである。言い換えれば、空手が人と社会に有意義な文化として確立されることだ。

それには、その特色と特異性を把握し、それを活かさなければならない。

私が考える空手の特異性・特色は、「打撃技を用いた他者との格闘行為」である。また、個体としての身体を通じ、精神的、物理的、身体的、数学的、状況的など、諸要素の相互作用が体観(体感)されるということだ。

これからの空手は、闘争行為を通じ人間としての「身心(からだ)」を制御し、より高次化していくということを念頭におかなければならないと私は考えている。

そして、人間と人間社会に普遍的な価値を基盤に体系の見直しを計るべきだ。

古典武道では、そのようなことを重視していると思うが、現代の武道はその部分を等閑にしている。

補足を加えれば、競技を自己と他者、その両方に通底し、それらを繋ぐ叡智を開く手段として確立したいと考えている。

そのような機能がスポーツと武道を分つ部分だと思っているが、その部分は新しい武道スポーツでは融合できると考えている。

古典武道には闘争を単なる勝負ではなく、そこに「道」、すなわち普遍的な理を求め、その行為(闘争)を昇華しようとしているところが見て取れる。
 
しかし、現代武道と古典武道に相違点が生じるのは仕方のない部分もある。
それは、古典武道の発祥時は、武道家の社会的地位が高かったこと。また、武道を行なう者、つまり武士階級に武力という暴力装置を基盤に社会を統治するのだという特権意識があったからだと思う。
 

また、その特権意識が社会を統治するためには教養が必要だという意識と相俟って、武術を理論化、体系化していった。それは、武道は武芸と呼ばれることもあったが、文武両道といわれたように、間違いなく武士道の形成にも影響を与えている。

つまり、古の武人にとって武術は、社会的指導者の教養の一部であり、その部分が、今日の武道(現代武道)と認識を大きく分つ部分だと私は考える。

正直申しあげて、我々は古の武人のような意識や自負を欠くと思う。それが現代の空手や武道の社会的地位の向上を妨げている原因だと思っている。

また、空手界や空手愛好者はそれを望んでいないような感さえ伺える。ゆえに一朝一夕の意識改革は難しい。しかし、私は空手や武道の真の効用を信じ、それを人と社会に役立たせるために武道人の意識改革と武道界の改革を目指していきたい。

最後に述べておきたいことがある。新しい武道スポーツは、重大な人体への悪影響を除外し、安全性を確保した闘争の疑似体験と考えている。

しかし疑似体験であるからこそ個々人の心身に反復体験を可能とし、高次の判断力と心身の創造がなされ、兵法が体得されるのだ。

また、私が構想する武道スポーツとは競技による皮相的な「勝利」に満足するものではない。

これからの武道、そして武道スポーツは、一人一人の心身に平和共存の叡智(智識)を引き出していくものだ。

私が構想する新しい武道スポーツは、異なる言語や文化を有する人間同士が協力して普及していくことを目指している。

また、目指す勝利は、人間性の回復である。その道を往くものすべては、既に勝者であり、そこに敗者は存在しない。



[今回で、拙論、「新しい武道スポーツをデザインする」を終了いたします。今後もしばらく、多忙の状態が続きますが、空手や人間教育に関する私の稚拙な思索をつづりたいとおもいます。是非ともお付き合い下さい。今回の拙論にお付き合い下さった方には、心より御礼申し上げます。2011-11-3明け方に記す。]