武道学〜新しい武道スポーツをデザインするNO,9 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
【武道学】

話を武道哲学に戻せば、先達の武人が遺した「兵法」や「心法」と呼ばれるものを「古典武道哲学」と言い変えても良いと私は思っている。

私は古典武道の研究も含め、格闘技や格闘競技を「闘争の学」「武道学」として、アカデミックな場所で考究し、それを人間教育の中に活かせるよう体系化を行い、その価値を高めるべきだと考えている。我が国にはそのような下地が充分にあると思う。

しかし「武道」「兵法」「闘争」という言葉が、忌まわしき敗戦の記憶を喚起させ、それを社会の知識人が無意識に回避しようとするからではないだろうか。

私はそれが残念でならない。なぜなら、平和を望み、戦争を回避するためには、闘争に向き合うことから始まると私は考えているからだ。それを私のような庶民ではなく、知識人や社会的エリートが理解しなければならないと思う。

繰り返すようだが、闘争の構造を考究することは、現代社会における人間教育に必ず役立ち、現存する地域的闘争(紛争)解決の手段となると考えている。そして、少なからず平和構築に貢献するであろう。

私は人類が回避しなければならない、破壊的闘争(戦争)の抑制及び問題解決の糸口を人間の心に置いている。

そして、格闘技・武道による心身修練は、「矛を止めるを以って武とす」という中国の武人、光武帝の言葉ではないが、「闘争状態の解決」の原理・原則を導いてくれるものと考えている。

我々は将来の子孫に遺さなければならない地球ならびに社会に対し甚大な被害をもたらすような破壊的闘争を行わないと心に銘記することのみならず、現存する破壊的闘争が生成される可能性に対し真摯に向き合うべきである。

真摯に向き合うとは、社会に生きる一人ひとりの人間が、闘争の本質を知り、破壊的闘争を未然に防ぐ意志を持つことだと考えている。

また小さな闘争を創造的な闘争に転換、昇華し、大きく破壊的な闘争状態に移行しないようにすることが重要だと考えている。それが、私の「矛を止める」ための提案である。

言い換えれば、闘争を完全に無くすことではなく、闘争を受け入れ、それをより高次な目的に向かわせるということである。

それには人類の「知」の領域のみならず、「叡智(智慧)」を開拓することが重要だと思っている。

繰り返しになるが、闘争とは対峙的(相対的)意識から端を発し、様々な要因の相互作用により生じる。

人類は闘争の結果を予測することが可能であるか如く、勝利を求め闘争を繰り広げてきた。しかし、相対的(対立的)闘争の勝利予測は不可能である。

しかしながら、そのような闘争が破壊的な闘争に移行することだけは回避しなければならない。

それには人間の心の中に破壊的闘争を生じさせるような相互作用を抑える力があるかどうかに依ると思う。また、相対的(対立的)闘争状態を昇華するような手段や価値観を創造できるか否かだと思う。