【私の武道哲学】
森羅万象は絶えず変化している。我々が見ている対立的局面も同様であろう。つまり、闘争の局面も変化していないように見えても時々刻々変化しているのだ。
さて、戦いということを意識しない人間はいないと言っても過言ではないだろう。しかし、我々はその本質を理解しているといえるのだろうか。ここで戦い・闘争について考えてみたい。
私は、戦いとは非自己との対立的な状況から闘争状態に陥ることではないかと考えている。そして、自分の内面的な対立、葛藤も戦いだとするならば、自分というのも非自己ではないかという仮説を持っている。
ここでいう非自己との闘争は、自分が戦意を喪失するか、相手が戦意を喪失した時に終了する。
武術を用いた闘争における自分の戦意喪失とは、戦闘力を奪われるか戦闘力を放棄するかである。平たくいえば、KOされるかギブアップするかである。相手の戦意喪失は、自分が相手の戦闘力を奪うことか相手が自ら戦闘力を放棄するかである。
しかしながら、厳密にいえば、命がある限り戦闘力及び戦意は無くならないかもしれない。
私が考えるところの闘争における「究極の戦意の喪失」とは、「和解」の実現である。それが現実的にいかに困難かはいうまでもない。
しかし、それが私の考える武道哲学、そして拓真道哲学のゴールである。
さて、格闘競技における戦い、すなわち対立的局面における「勝利」とは何であるか考えてみたい。そのような局面での勝利とは、「相手の戦闘力を奪うこと」であると定義したい。
「相手の戦闘力を奪うこと」とは、先述の「究極の戦意喪失」と次元は異にする。誤解を恐れずにいえば、それは格闘競技があくまで闘争ゲームでしかないということだ。
しかしながら、私は人間に共通の身心を用いた格闘競技(スポーツ)が、「和解」という闘争における究極の理想を実現するための訓練として有効であると考えている。
補足を加えれば、対立的闘争の演習が「武道」や「格闘競技(スポーツ)」なのだと考えている。
私は、そのような考えから「武道」や「格闘競技(スポーツ)」などの闘争を捉えている。
ゆえに格闘競技のみならず、あらゆる対立的闘争に最低限の人間としてのルールを設置し共有しなければ、人類は人間性を喪失し、やがては人類滅亡にいたるであろうと考えている。
【フリースタイル空手・拓真道の修練理念】
ここで私が構想し普及するフリースタイル空手・拓真道の修練理念・理論に於いて述べたい。フリースタイル空手・拓真道では、絶えず変化する対立的な局面において勝利を得るためには、先ず以て、そのような状況を知ることが重要だと考えている。同時にそのような状況により善く対応することが重要であろう。
補足を加えれば、知るだけでは駄目である。また、単純に対応するだけでも駄目である。知ると同時に対応する。すなわち「知行合一」でなければならないのだ。
先述した「状況を知り、それにより善く対応する」。そのような原則が私の考える武道哲学を基にした武道修練である。
そのような原則から考えれば、「絶えず自己を不利な状況に陥るのを防ぎ、有利に転化していく」ということが格闘競技(対立的闘争)における勝利を得る道になる。
しかし、状況に対し条件反射的に対応するのみでは、複雑な局面の変化には対応できなくなるであろう。
ゆえに、より高次な対応とは、時々刻々変化する局面を固定的に捉えるのではなく、変化していくものとして捉えること、同時に本質的かつ大局的に捉え対応するということである。
言い換えれば、変化の中に何らかの普遍性を見いだし、原則的に対応していくということだ。
それが拓真道の目指す「より高次の判断力を育む身心(からだ)の創造」に繋がっていく。