大会の準備等で忙しく、ブログを各時間を捻出できません。今回も私の拙論を掲載しておきます。
興味ない方には、文字の羅列にしか見えないでしょうが、本当は僕の遺言に近いものです。(相変わらず大袈裟な奴だとお思いでしょうけど)
この拙論は、私が空手修練の中で感じたものです。本当はしっかり推敲し、加筆修正を加えたいのですが・・・。大会が終われば書き上げます。発表するか解りませんけど。
〈新しい格闘技スポーツをデザインする~NO,3〉
【チャンピオンスポーツ(競技)としての空手】
チャンピオンスポーツ(競技スポーツ)としての空手を考える前に、私の空手道指導者、団体主宰者としての立場を端的に述べたい。私は、格闘技としての空手がスポーツ文化と融合することを肯定する立場である。
なぜなら、スポーツ文化のあり方も多様であり、人間形成的側面に重きを置く立場は、空手が空手道として確立を目指す方向と大きな違いはないと思うからだ。また、スポーツ文化の包括性を良い意味で取り入れれば、空手を社会や人間に効用のあるものとして、より高次化することかできると考えている。
そして今、その融合をより良いものとするためにも、武道としての空手やスポーツのあり方を再考していこうというものである。
現在、空手道はチャンピオンスポーツ(競技スポーツ)としての面が強く押し出され、「勝利」を目指すことに重点が置かれている。競技における勝利とは、競技において、相手より優位に立つこと。またはそれと認められることだろう。
チャンピオンスポーツ(競技スポーツ)においては、競技において、する側(競技者)と見る側(観客)の両方の理解と満足が得られなければならない。そうでなければ、スポーツとして人気を博することが出来ないからだ。しかし両方が満足できれば良いが、出来ない場合がある。
空手道競技の判定の問題がその典型である。判定の問題とは、勝利が点数などで確定するスポーツと異なり、審判が勝利を判定する競技は、する側である競技者の主観と見る側である審判の主観とに齟齬をきたしやすいということである。
競技において、見る側としての審判の主観は、もう一つの見る側である観客の主観の満足を前提しなければならない。ゆえに競技には、する側、見る側双方が納得できる明確な判定基準がなければならない。
無論、見る側が競技者(する側)の感覚をすべて理解することは出来ない。しかし、客観妥当な判定でなければ、競技者は納得できないはずである。そして競技者が納得できなければ、競技者のモチベーションの低下は避けられない。競技はする側が全身全霊を込められる価値を有するものでなければならないと思う。
競技には審判を神聖視、絶対視しようとする向きがあるようだ。しかし、神聖なのは、双方の競技者を含め、様々な要因の相互作用により勝利が生まれるという創発的な現象の部分であり、審判ではないのだ。審判の本来の役割は、神からの贈り物とも表現できるような、創造的「勝利」を享受するに相応しい状況をつくるために、反則等の行為を諌め、抑制することが主な役割であると思う。
つまり審判による判定に重要なことは、「勝利」という状況に対して、する側の上位に君臨する権威者としてではなく、見る側としての観客を理解させ納得させることではないだろうか。
しかし、する側の立場に立てば、一対一の格闘競技の場合、「降参する」あるいは「KO(ノックアウト)される」ということで無ければ、納得いかないという事実が存在することを念頭に置いて欲しい。
これまでの日本の空手競技では、する側と見る側の立場を納得させるため、する側(競技者)の中から権威者、あるいはその代理を立てることが多い。
その権威者とは、する側の世界における年功序列的な上位者かつ伝統的美意識の評価者である。そのような人間を見る側(客観)の代表とする。それが空手競技の問題の核心ではないかと思っている。
問題の一つを挙げれば、高いレベルでの闘争の技術や状況は、いかに年功序列的上位者であっても、また競技を少し経験したとしても、理解できるものではない。それを判断できるとしているところに競技の判定並びに審判に関する本質的問題がある。
そこを追及せず曖昧にしているところが、そのまま判定の曖昧さに反映している。極論すれば、競技という状況における優劣の正確な判定は、単純な戦いの局面や能力に限定すれば可能かもしれない。
しかし打撃系格闘技の判定は、打撃のダメージをどのように判定するかが基盤になるので、相手を打撃技で倒さない限り判定は困難である。ゆえに打撃系格闘競技では、上位者の戦いにおいて拮抗した戦いが多くなり、結果「引き分け」が多くなる。
競技選手を長く経験した私は、「引き分け」を少なく出来ないかと常々考えてきた。その考えの本質的課題は、「引き分け」という判定や概念の全否定ではない。曖昧な引き分け判定を是認していることで、曖昧な競技の観方が定着してしまうことの危惧である。
その曖昧さが多様な見方を生む面もあるが、その観方のほとんどが格闘技の本質を知らない者の戯言である。私は、スポーツという公共性の高い枠組みに入っていくのであれば、客観妥当性がなければならないと考える。
そうでなければ、する側と見る側が共に価値を創造していくという構造を生み出すことはできず、持続的発展は遂げられないであろう。ゆえに私は、技術の優劣をボールゲームのように数値化するという考えを持つに至った。
スポーツとして歴史が長いレスリング競技のルール(制約)及び判定基準は、そのような観点を有し、かつ格闘技の本質を捉えていると思う。
例えば、対戦相手から有利な状態を確保した場合にポイントを獲得し、それらが一定の量に達したら相手の「戦闘力の喪失」とみなし競技を終了する点にそれが顕れている。また、相手の両肩を床に着け数秒間その状態を保持できれば、それも相手の戦闘力を奪ったと判断される点や相手の身体を支配するような状態も戦闘力を奪う技として判断されている点も同様である。
昨今は観客を意識してか、更なる発展を目指してルールの改変が行われているようだ。しかし「客観妥当な判断」を核心として、技術を最大限に引き出すことや公正な判定を目指していることは充分に理解できる。
ここでもう一つ私が提起したい観点は、勝利という価値を相手との技術的優劣のみで判定されるものに止めるのではなく新しい価値を付加できないかということである。
競技には、相対的なものを超越するより高次の価値が内在すると思う。私は、その価値を引き出すことがチャンピオンスポーツをより高次化する道だと思う。そうでなければ、チャンピオンスポーツ(競技スポーツ)は単なるゲームに堕し、優越感という果実を貪る戦士たちとその欲望を操ることで優越感を得ようとする人間の政治の場と化すに違いない。
私が考える勝利とは、競技において必要とされる、「より高次の判断力を育む心身の創造」だと考えている。ここでいう「心身の創造」とは、対人競技において、相手と自己との心理的(精神的)、物理的、身体的、数学的、状況的、諸要素の相互作用で起こる現象を統御、統合していく能力の発揮と獲得といっても良い。
アスリートたちの芸術的とも思える技や技術は、鍛え抜かれた身体能力と研ぎ澄まされた高次の判断力、また独自の感性などを発揮した結果である。アスリートはそのような高次の判断力を発揮しながら、それを競技の枠組み内でしか発揮できないでいる。
私はその判断力を異なる状況下でも活用できると信じるものである。それが為されないのは、優秀な競技者の多くが皮相的勝利に満足し競技における貴重な産物を看過しているからであろう。
また、競技におけるそのような領域を考究しようとしない格闘競技の指導者の問題だと思っている。
以上、空手をチャンピオンスポーツ(競技スポーツ)の面から考えてみた。(つづく)