梶原一騎を考える | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
本日は出張の新幹線の中でブログを書いています。忙しくてブログを書くことができませんでしたが、久しぶりにコラムを書きます。ただ、ネタはしょうもないと思います。その代わり、私の中学生の時のことや極真空手に対する考えを掲載しました。

【梶原一騎を考える】
ある日のこと、私が卵豆腐(パック入り)を購入して帰宅すると、「僕は卵豆腐が好きなんだ」と愚息が言う。
 
「そうか、それならこの卵豆腐をお弁当のおかずにして持っていけ」「そして、弁当箱にご飯を詰め、梅干しを入れて持っていけ」「それなら、お母さんに弁当を作ってもらわなくても良いだろ」「たまにはそうしろ」。もし、学校の仲間が笑ったら、「お母さんに世話をかけたくないから自分で弁当を作り持ってきたと、胸を張れ」そこまで私が親父ギャグ風にまくしたてた。(ギャグになっていない?) 

そこで愚息が突っ込みを一言。「古いな~」私は思わず、「古いというのは、お父さんの世界観がか?」と聞くと。「そうね~すべてが」「すべてに加齢臭がする」と更に続いた。(笑)

私のギャグのセンスまるで無しのこの話はどうでも良いが、この時、私の脳裏には故梶原一騎先生の「巨人の星」の世界観があった。

そこで私は、梶原一騎先生の洗脳から逃れられない自分を知ると同時に、自分の世界観を考えてみようと思った。

私が愚息に言いたかったことは、みすぼらしい弁当を持っていって、みんなに笑われても胸を張れということだった。それを親父ギャグの乗りで愚息に伝えたのだ。(説教風だと聞かないと思ったから)

私のメッセージを愚息は見抜いたのように「古いね~」と突っ込みを入れてきた。私は「なかなか鋭い突っ込みだ」と笑いながら返した。

先述の話は、「巨人の星」のワンシーンからインスパイアされたものである。そのシーンを大まかに紹介する。

巨人の星の主人公、星飛雄馬は青雲高校に入学するための面接試験の際、面接官に父親の職業を聞かれる。

そこで星飛雄馬は少し躊躇しながらも、家族のために一生懸命働いている日雇い人夫の父親のことを「日本一の日雇い人夫です」と胸を張って答える。

当時、小学生の私は、そのシーンに強く感動したのを憶えている。なぜなら、当時の私は家業が恥ずかしかった。そのおかげで自分が生活できているのは解っている。しかし、胸を張って人に言えるまでには成長していなかった。

ゆえに、一般的にかっこう悪いイメージの職業の父親のことを、「日本一の日雇い人夫」と胸を張る、飛雄馬の姿に強いシンパシーを感じたのだ。

私は、梶原一騎先生の描いた世界観に影響を受けた一人だ。梶原先生は極真空手の誕生と発展に多大な貢献をした一人である。

梶原一騎先生は漫画の原作者で名を馳せる前は小説家を目指していたらしい。しかし、厳格な父親に才能を認められず苦労したようだ。(確かではない)

私は、巨人の星を父と子の物語だと考えているが、父親に対する梶原先生の想いが作品に感じる。

また、梶原一騎先生の作品からは、社会的ローワー(庶民・下層生活者)の悲哀とその生命力をモチーフにしながら、努力すれば変身できるということや一芸に秀でた人間であれば、逆境をはねのけ、胸を張っていけるというメッセージを投げていたように思う。

「あしたのジョー」では、そのような梶原一騎先生の世界観に加え、ちばてつや先生が下層生活者の優しさ暖かさを付加し、より一層、その世界観はローワー(庶民)の心を捉えるものになったと私は考えている。

そして、その作品は日本の高度成長期におけるローワー(庶民)の上昇志向と相俟って、一代ブームを巻き起こしたと見る。

もちろん、作品によってテーマは異なるが、その多くが社会のローワーやアウトサイダーに視点を置いた。

そのような要素が高度成長期の高揚感の裏側にあった個人の自己表現への欲求と相俟って共感を得たのではないだろうか。

時々、その時代の私を振り返ることがある。その時代の私は愚かだった。なぜなら、梶原先生の漫画の世界観に浸りきり、自分を無理矢理アウトサイダーの側に置いたからだ。

また、世の中の不条理に疑義があるのなら、勉強をして権力やエリートの側と肩を並べるところにいくという選択を完全に捨て去った自分の極端さを反省している。(ちなみに中学時代は鶴田浩二と小林旭が好きだった。誰も知らないだろうな鶴田浩二なんて・・・笑い)

その反面、私は詩を愛する少年だった。そして偉そうにする人間が苦手だった。(私自身も鏡で見ると偉そうかもしれないが・・・。私はフランクかつオープンな性格です?)

学校でも真面目でおとなしい先生の授業は真面目に聴いた。(巷の不良達は私と反対のようだったけど)

本来の私は優等生だと思うが、中学時代はちょっとした出遅れで自暴自棄になっていた。そして、私の中の反骨精神が前面に出ていた。

また、中学生時代の大の仲良しは在日だった。彼は私にだけ、自分の生い立ちを教えてくれた。サッカーが上手でかっこいい奴だった。でも何処か暗い面を持っていた。

当時の私は、多数派が嫌いだった。少数派、否、孤独そうな奴が好きだった。ゆえに、彼にはシンパシーを感じていたのだと思う。思春期性の思い込みかもしれないが。

そして、私は故大山倍達先生と出会っていくのだが、私が梶原一騎先生の描いた巨人の星、あしたのジョー、タイガーマスク、空手バカ一代等々に強い憧憬を憶えたのは、非力な個人が自分の力を頼りに努力し続ける姿と弱者への思いやりに共感したからである。

私に自信を取り戻させてくれた極真空手は、大山倍達先生の死後、分裂を重ね、それぞれが我こそが本流と言い張っている。

極真とは真を極めるという。真という意味は様々な捉え方ができると思うが、私はリアルなこと、すなわち懸命に生きることだと私は考えている。それが、死を決定づけられた人間の普遍性でもある。

言い換えれば、ここでいうリアルとは「過去を引き受け、より善い未来に向け今を精一杯に生きること」と言って良い。

また、極真が掲げる強さは「どんな境遇にあろうとも希望を失わず、みんなが仲良く幸せになることを目指す意志を持つこと」だと考えている。言い方は色々あるだろうが、私はそう考えている。

そして、我が愚息の世代にも、梶原一騎先生の世界観が通用すると信じたい。

もちろんすべてではないが、その中には現代にも通じる普遍性が必ずあると考えている。それを伝えられないのは、伝える方がその普遍性を掴んでいないからだ。

アンチ極真空手派は、「空手バカ一代なんて漫画でしょ」「漫画に影響されるなんて馬鹿な奴」と一蹴するだろう。
しかし私は、梶原一騎先生の提示した、一人ひとりが懸命に努力をすること。そして、その努力を認める社会がすばらしいんだという世界観は、これからの社会にも重要な価値観だと考えている。