すみません。本日はブログを更新したかったのですが、急用ができました。
ですから、今回も昨日アップした論文のつづきを掲載します。
【新しい格闘技スポーツをデザインする】NO,2
【武道の競技化】
空手界黎明期の多くの指導者は、剣道や柔道に倣い競技化を推進した。当初は「武道」としての確立を企図したものであったと思う。しかし競技化のためには、空手の攻防を安全化、単純化しなければならなかった。
そのような先人の判断は、斯道の普及という効果はあった。しかし、それが格闘技としての空手がスポーツと融合の始まりでもあったのだ。
スポーツ文化との融合の効用を肯定的に述べれば、エンターテインメント性を重視し、観客に見せるものとして確立していくことで、空手が自己表現の手段としても機能するようになった。
それが空手愛好者の修練に対するモチベーションを向上させ、他の対人競技のアスリートと同様、身体能力を極限まで高めるような訓練法や試合における多様な技術の創出を果した。
他方、否定的に述べれば、空手愛好者の多くが勝負偏重主義に傾き、稽古に対する意識、そして内容が「競技に勝つ」ということを前提としたものに変わり、皮相的な技術や理論の跋扈というような現象を生じた。
これまでの空手界は、競技や組手修練において、相手の身体を技で「直接打撃する」か「直接打撃しない」で大きく二分されたといっても過言ではないだろう。
要するに競技を修練の核に据えることで、競技方式の違いで分化し確立されていったのだ。前者は、安全性という面で後者をリードし、いち早く世界に普及を果した。しかし、その相手に技を直接当てず、寸止めするという方式は、攻撃技の効果や勝負判定が、見る側のみならずする側にも理解、納得しづらいという問題点がある。
後者は直接打撃を行うというものであった。ゆえに寸止めの方式より、攻撃の効果がする側、見る側に理解、納得しやすいものであった。当初、安全性に問題点があると思われたが、突き技による顔面・頭部への打撃を禁じ、蹴りのみに限定することでその問題点の緩和、解決に努めた。
当初、安全性に問題点があると思われたフルコンタクト方式と呼ばれるその方式は、問題点を掻き消すかのように、「空手技の効果」を見る側にアピールした。
それは空手競技にスペクタクル性を付加し、寸止め方式の空手と差別化され、一時は寸止め派を凌ぐ勢いで普及を果たした。そのようなフルコンタクト方式(直接打撃方式)も見る側の期待と欲求に反して、徐々に空手技の効果が明確にあらわれないようなっていった。
そうなると、フルコンタクト方式にも寸止め方式と同様、勝負判定が見る側に解りにくいという問題点があらわれてきた。以上のような問題点の核心は、寸止め方式、フルコンタクト方式共に判定基準や方式に審判の主観が強く作用し、玄人のみが理解できるような判定能力を必要とするところに起因している。
それらの問題点は競技者の勝負に対する理解、納得にも影響を与えた。更にそれらの問題点に対する思考停止状態が、空手のオリンピックスポーツ不採用という結果の根底にあると思う。
昨今のフルコンタクトカラテ界には、直接打撃方式を謳い寸止め方式を全否定して発展してきたしっぺ返しのように、自らが掲げる実戦性(?)に疑義を抱かれ始めている。(そもそも私は実戦性という言葉自体に疑義がある)
その疑義を誘発したのは、「強者への憧憬」「ショーアップされた舞台への憧憬」などの欲求に応え、新たな刺激を用意した新しい格闘スポーツが台頭である。「一撃必殺などの宣伝文句」「格闘技・武術としての質」「頭部打撃の制約」「勝負判定」などに具体的疑義が生じているのだ。
それに追い討ちをかけるように、「競技試合におけるノックアウトの局面の減少」「競技基盤の空手団体(組織)の分裂」等の要因により、競技の魅力が減退してきている。
そのような点を踏まえ空手界を俯瞰してみると、寸止め方式と直接打撃方式は空手界の発展に対し相互補完的な関係にあったと見て取れる。奇しくも、どちらの方式を採用する団体(組織)も肥大化と共に内部抗争が起こり、勢力を分散させている。その理由を考証することはここでのテーマではないが、私の見解は、空手はいまだ公共化に至っていなかったということである。
公共化とは私の造語であるが、公共化とは社会に重要な構成要素として認知されることを意味している。言い換えれば、より多くの人に益をもたらす文化的公共財としての承認を得ることである。空手は、その愛好者の増加という面だけを見れば、充分に社会的に認知されたといえるかもしれない。
しかし、カウンターカルチャー的な面や組織が統一されていないなどの負のイメージが隠せず、文化的公共財への道は遠い。
外側から見れば、「なぜ、組織を統一しないのか」と思われるだろう。私は他のスポーツ界の重鎮に、「空手界は駄目だ」「組織を統一できないのはリーダーの人間性の問題」だと言われたことがある。事はそんなに単純ではないと伝えたが、内心は忸怩たるものがあった。
序文で述べたように、空手は最も発展の可能性を有する格闘技がゆえに、愛好者を含む諸流派が多様な価値を空手に見出し、それを護っているような面がある。そのような面が空手の良点かもしれないのだ。しかし外部から見れば、指導者・リーダーの問題により統一できないというのも事実であろう。
先人が創設した競技方式や稽古法は、空手道を社会に普及するために、安全性の確保や複雑なものを単純化し、スポーツ文化と融合しながら発展してきた。しかし、「それらの方式は本当に先人の求めたものなのだろうか」。
「それらは最高・最良の方式なのであろうか」。そのような疑問を核に、チャンピオンスポーツの面から空手を再考してみる。
(つづく)