「変化を創り出せ」〜ルールとは何か〜その2 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
「変化を創り出せ」~ルールとは何か~その2


昨晩、いつものようにパソコンに向かい仕事をしていると、テレビから
「執念が大事」とか聞こえてきたので、「なぬ!」とテレビを見た。
「執念」という言葉は、私が柔道部に籍を置いていた星稜高校時代、柔道の帯に刺繍で刻み込んだ言葉だった。


当時の私は、柔道でインターハイに出場するんだと勇んでいた。そして、屈辱的な中学生時代の汚名返上をしてやると意気込んでいたのだ。

その幼い頃の夢は、私の短気によって、はかなく消えた。そして、中学時代以上の汚名を背負うことになった。その辺は、今ブログに書く気にはなれない。もし興味があれば、拙著「増田章 吾、武人として生きる」(東邦出版)をご覧頂きたい。その辺が少し書いてある。

話を戻せば、番組は日清のカップヌードルの誕生物語の特集だった。
私は、仕事をしながら聞いていた。(どうしても仕事を早く済ましたかったので仕事をしながら見ていたが録画しておけばよかった)

カップヌードルの誕生時は、値段が高く、全く売れなかったそうだ。その理由は、販路が確保できなかったらしい。当時の問屋や販売店が値段が高いという理由でまともに扱ってくれなかったのが原因と聞いた?


そこで日清の伝説の営業マンは、独自の販路を開拓していったらしい?

また、当時のカップヌードルの製品コンセプトは、「時間を売れ」ということだと聞いた。つまり、販売開始当時のカップヌードルの製品コンセプトは、時間がない人に3分で製品を提供するということだったらしい。(私もかすかにおぼえている)

さらにカップヌードルの名称か製品のことか解らないが、初め、カップ○○丼(?)というようなものも考えられていたようだ。(その辺は、まだ気に留めていなかったので、しっかり見ていない)


もし、カップ○○丼のような製品だったら駄目だっただろうとカップヌードルの発案者が語っていた。(その辺もおぼえていない。日清の社長なのか発案者なのか?今度、時間があれば、調べてみます)

さて、私がブログに日清のことを書く気になったのは、その当時の日清の社長?が番組の後半に、「変化に対応するのではなく、変化を創り出せと言っている」ということを聞いたからだ。

その言葉は私がフリースタイルカラテ・プロジェクトをやり始めた当時、口にしていた言葉とほぼ同じだ。

それは、ブログ「ルールとは何か~序章」で書いた内容に通じる。そこで私はマーケットのニーズについて、「私が考えるニーズとはルールを絶対だと思い、そのルールの中で勝ちたいと必死で願う者の心のことであり、ニーズを捉えるというのは、そこにフックする事をいうのだと思う」と書いている。

そこに補足を加えれば、マーケットの真のニーズは「勝ちたい」ということであり、その「勝ちたい」というニーズの本質は、人間の欲望だと考えている。

そして、それを支配しているのものが、自らが創り出したルールなのだ。


そのような構造を理解しなければ、人間は永久に不自由のままだ。私は自由になりたいと欲しながら、既存のルールを守ろうとする人間が滑稽だとすら思う。無論、私はルールを破れと言っているのではない。

自由になりたいと欲しつつ、ルールを破ることで得られる解放感は真の解放でないと言いたいのだ。言い換えれば、自由とか不自由の境界線を越え、真の自由を得るためには「人間自身が創り出しているルールの壁を乗り越えろ」ということだ。

私は真の解放感を得る方法は、ルールを守ることでもなく、ルールを破ることでもないと考えている。

真の解放感とは、自らが創った(あるいは見つけだした法則でもよい)ルールを活用していく営みの中からしか生まれない。そして、そのような営みが真の自由であり。そのような営みを求める心が自由の本質だと考える。

私の自由論を述べれば、人間にはルールを創り変える自由が与えられている。そして、人間の心身は不自由かもしれないが、人間には自分でルールを創り出す(あるいは発見する)ことができる。
つまり自由とは、ルールを
創出(自然法則を発見することも含めて)しつつ、それを活用することだと私は考えている。

そして、そのような自由を求め実現していくことが「勝利」、すなわち勝つということではないだろうか。(私の勝利論である)

話を戻せば、日清の社長?が口にした、「変化に対応するのではなく、変化を創り出せ」ということを私流に言い換えれば、「ルールに対応するのではなくルールを創りかえろ」である。
それは変化を認識するルールそのものを疑い、それを創り変えろということだ。


最後に、日清のカップヌードルの成功物語の本質は、人間が新しい価値を生み出し、そこからえられる解放感の物語だと、私は見て取った。

そして今現在、私の理念及び構想が必ずしも充分に理解されなくとも、また、私の非力により具現化が時代をまたぐとも、必ず受け継ぐ人間が現れると信じたい。




本日は、過労で不覚にも風邪ぎみである。早く休みたいが、急ぎ、思いついたことをブログに記してみた。いつものことだが、再考を要すると思う。それでは。