【組手とは何か~その1】
組手稽古に関して、私の道場では、道場生に意識付けを徹底させようとしていることがある。
それは組手を強く行なわないということだ。
なぜなら、組手は対話のようなものと考えるからである。
言い換えれば、空手の技を言葉や単語に例え、約束組手や組手型は熟語を応用した例文や文節のようなものに例えるということでもある。
そして組手は対話のようなものだとするならば、私が重要とする心得がある。
極真空手のみならず、寸止めの組手において(伝統派の人達は寸止めではないというかもしれない)、組手が対話のようではなく、議論のように熱くなってしまうことがある。
時には熱くなるのも仕方ないが、訳の解らない言葉を使い、乱暴に議論するのは武道修練における組手ではない。ましてや寸止めと約束しているのに当てる等というのは未熟そのものの姿だと私は思う。(私は寸止めの稽古も良いと思っている。しかし、組手で熱くなり相手の歯を折るという行為の本質が何かは、良く考えてみれば解るはずだ)
私が行なうフルコンタクト式の極真空手も、熱くなっては、相手を滅茶苦茶に蹴り、打つことが昔はあったようだ。(今は、そこまではしないだろう。道場生がいなくなってしまうから)
あらためて問う。組手とは何か?
下手な例えだが、「組手は空手技を用いた相手との対話」のようなものと私は考える。
対話というのは、組手技を言葉(単語)に置き換えての例えであるが、
その本質は意味の交換と生成である。
そうすると、対話とは、言葉(単語)の発音や意味を正確に把握し、熟語等を応用して例文や文節を構築し、それを相手に意味が伝わるように交換することであると私は考えている。(すみません。言語学を学んだわけではありません。言語について知っている人がいたら、こっそり教えてください)
そのような体をなしていないものは、ただの下品な「口論」か「ののしり合い」のようなものだと思う。
ゆえに私は、道場の組手は、対話を行なう前に、言葉の意味や発音を大切にするように、技の意味や身体の使い方を大切にしなければならないと教える。
そして、熟語を用い、相手としっかり意味の交換が出来るように、また例文にあたる約束組手や組手型を練習し、それを応用して、動きの意図を交換し合えるようにならなければならないと教える。
そのような組手が出来て始めて、相手の動きを読み取り、それに最短最速で応じる動きが出来るようになるのだ。
又は、相手を論破する議論のような組手を行なうにしても、言葉にあたる技を正確に出すこと。また、熟語にあたる連携攻撃や応じ(増田道場では何百とある、相手攻撃を受け、又はかわしてから反撃する戦術を「応じ」という)をしっかり活用して組手を行なう事が大切だ。
そして、議論が相手の論をこちらの論で破ることを目的とするように、空手における組手も自分の確かな戦法で相手の戦法を打ち破るような組手を行なうことが肝要である。
ここまで読んで、「何のこっちゃ」と思われる人も多いかもしれない。
ようは「相手に技を効かせればいいんじゃないの」という人もいるであろう。
また、「そんな難しいこという空手は、あかん」という人もいるだろう。(すみません、大阪弁で書いたことには、意味はありません。私の普段の話し方です)
そのような声を承知でもう少し言えば、先述のような組手は、私の好きな組手ではない。そして武道的な組手ではないと考えている。
私の考える武道的な組手は、相手を論破するような組手ではなく、相手を納得させるような組手である。
それには、相手の論も受け入れ、包み込み、そして自分の論を相手に納得させるような組手と例えても良いだろう。
私もそのような組手が完全にできるとはいえないが、そのような組手が出来るようになりたいと考えている。