型論~「Change or Die」
またまた、テーマ的に長文になってしまいました。よろしければお読み下さい。
「チェンジ オア ダイ」(「変われ、さもなければ、死ね」)
この言葉はある会社の社長がよく使う言葉だそうです。
一般の方は、随分、厳しい言葉だと思われるでしょう。しかし、よく考えてみると、人間から企業まで、ある種の有機的システム(組織・体系)を持つ存在は、絶えず変化しているように思います。そう出なければシステムが劣化し、やがて衰退、滅亡へと移行するのが、システムの運命のような気がします。その中で、長い間、システムを維持し、生き残っているものもあるように思います。時間の余裕があれば、その辺の件の研究をしてみたいと思いますが、今は余裕がありません。
私の専門の1対1の格闘技の次元に置き換えて考えてみます。相手と対峙する状況下では、相手の出方を完全に予測することは困難です。例えば、あらかじめルールが設定されている格闘ゲーム(競技試合)では、ある程度の予測が可能かもしれません。しかし、ルールが完全には設定されていない状況下では、予測は不可能に近くなるでしょう。
それでも、私達人間は、あらゆる方法を用い、相手の出方を予測しようとします。また、過去の経験や情報による対応記憶を頼りにするでしょう。そして、それを基に行動の「型」を作っていきます。ここでいう行動の型とは、経験則による反射的な行動の癖ではありません。
武道の世界では、あらゆる状況に迅速かつ有効に対応しようと過去の優れた結果をもたらした技の再現を目指し「型」を創出します。そして、その「型」をより有効なものにしょうと訓練します。
その訓練の方法は、何千回、何万回と型の反復し、身体に染み込ませていくという方法です。その本質は、数多い型を覚えるということではなく、普遍的な技術を体得するということです。それを「コツ」といっても良いかもしれません。それでは、型は少なくて良いのかというと、そうではありません。少ない型で普遍的な技術を体得するということは理論的には可能ですが、それは型の絶対化に繋がっていきます。「型」の絶対化に関しては、少々異論を挟まなければなりません。
大まかに話をしますと、生死を賭けた戦いや市場というような戦いの場、すなわち、戦う環境は、それを取り巻く時代背景や文化の相違等等によって異なり、絶対的ではありません。
無論、ルールの設定という人為的な操作を行えば、ある程度の環境の固定も可能かもしれませんが、それでも絶対的ではないでしょう。ゆえに、真剣勝負の戦いでは、絶えず型を疑い、同時にそれを修正していかなければ、生き残っていけないのです。そして、型を絶対視すれば、無効どころか、命取りということにもなりかねません。
ゆえに、私の武道理論における型の意義は、「型の反復訓練」による技の体得のみならず、「型の創出」という行為を重要視します。つまり、私の型論は、新たな型の創出が型の反復訓練の意義だというものです。言い換えれば、型の反復訓練の先に、すぐれた想像力と対応力の発揮としての新しい型の創出ができなければ、真剣勝負の戦いでは、生き残っていけないのです。
また、新たな型の創出に向けた、たゆまぬ創意工夫と自己変革、これが生きるということではないかとと私は思うのです。少々熱が入り過ぎました。ここで私自身に大きな矛盾が出てきています。上述のたゆまぬ創意工夫と自己変革が生きることだと、真剣に生きている私が絶望感と苦しみに喘ぐのはなぜでしょうか。もっと楽な生き方があるようにも思えます。
また、私達はそれと反対の欲求を覚えます。「変わりたくない」「このまま何も変わらずにいて欲しい」とか、「昔は良かった」というように。そして、変化しなくてよいように、不変の真理を求め、外部と壁を作り、内部を最適にしようと努力をします。
もちろん、内部の最適化も重要なことだと思います。しかし、外部と関わるのを避け続ければ、自己満足に陥り、やがて外部の変化に対応できなくなり、内部も崩壊するように思います。ゆえに、内部を守ると同時に外部の環境変化を察知し、それに対応していく必要があると思います。
私にも「昔は良かった」というような思いを持つことがあります。しかし、そのような思いは、粉々に粉砕されるような気がします。すべては変わっていきます。それが実態のように思います。だから良いとも言えるのです。その摂理を受け入れ、それに対応していくには、サーファーが波に乗り、それと遊ぶように、新しい型と価値を創り、環境の変化に対応していくしかないのです。
新しい型や価値の創造とは、過去を否定するものではありません。むしろ過去を受け入れ、大事にすることなのです。時代の主役は、若者になるのが自然です。そして、我々中年や老年は、将来の世代に対して、年長者やその歴史を守ろうとする若者を重用する傾向があるように思います。
それは、間違いではないのですが、もっと重要なことは、過去の歴史を大切にしながらも、新しい価値を創出するという気概を持つ若者を支援するということのように思います。
先の「チェンジ オア ダイ」という言葉は、変化の早い市場という環境に素早く対応するために、絶えず自分を変革し、外部に適応していく気概のないやつは去れというようなメッセージが含まれているように思います。私はそこまでは言いません。なぜなら、私も変わることを好まない普通の人間だからです。しかし、その言葉を発した経営者のリーダーとしての覚悟には敬意を覚えます。
私の提唱するフリースタイル空手とは、型がないというよりは、一人ひとりが、絶えず自己変革を行い、新しい型を創造し続けることを意味しています。
それは、前述した「サーファーが波に乗り、それを遊ぶように」と言い換えても良いと思います。サーファーは、ある種のコツ(私が考える型とはコツを掴む手段といってもよい)を持ち、それを新しい波と対話するかのごとく一体となり、そして自己を表現し遊んでいるのです。(私はサーフィンの経験はありませんので、間違っているかもしれません。)
私は、空手愛好者の多くが、そのような自己変革と自己創造の体験を格闘技スポーツによって体験し、各々の人生に応用できるようになったら良いなと考えています。そうなれば空手に人生をかけた馬鹿な男の人生も報われると思っています。