毎回のことだといわれかもしれませんが、今回、冒頭から固い表現をお許し願います。先ずは、拙著、「フリースタイル空手」からの抜粋を紹介します。
〔武術を駆使する戦いにおいては、敗北は死であり、許されない。ゆえに武術家は戦う以前にあらゆる情報を収集し、負けないための準備を怠ってはならない。また、日常のあらゆることが勝負に結びつくと考え、不断に「勝」を志向しなければならない。真の「勝」とは、皮相的な勝利のことではない。その行動において「原理原則」(道理)が活用できたかどうかが要点になる。先達は、生活を含めた人生におけるあらゆる実践において、原理原則を追求し、その活用・実践を心がけた。それを「事理一致の修行」と呼ぶ。確かに原理原則の追求は重要だが、その前にあらゆる可能性を検討することが必要だ。そして、結果の検証において発見される法則性を絶対視するのではなく、絶えず更新し、精度を上げていくのが拓真道哲学である。〕
これは、「拓真道」と私が名付けた武道哲学に関する記述です。技術書の挿入文とはいえ、分かりにくいなと思います。すみません。筆力がなくて・・・。さて、ここで私が述べているのは、「勝」、すなわち「勝つ」という概念に関する自説です。
私が言いたかったことは、真の「勝」は、「道理」に適っているものだということです。でも、余り善くないですね。分かりにくくて。
さて、「勝」に関しては、我が国の兵法者も、諸説述べていますが、ここで私が意識したのは、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」と述べた、「常静子」の武道哲学です。この言葉は、野球の野村監督が良く使うので、聞き覚えがあるなという方もいると思います。増田は、野村監督が好きです。(脱線しています。すみません。)
話を戻します。先の「常静子」の言葉を私流に解説すれば、「勝ちには、偶然の産物、すなわち、不思議としか言えないような勝ちがあるが、負けには、必ず必然的な負ける原因、道理が導きだされる」となります。
ここまで、読むだけで、「もう、あかん!」(私は関西にすんでいましたので、関西風にしました)となっていると思いますので、結論を急ぎます。私の言いたいことは、勝つことがすべて、そして、ただ勝てば良いというのでは、結果至上主義の浅い勝負哲学しか醸成されないということです。無論、真剣勝負の世界では、敗北は死であり、勝利者側の理屈が正しいとなるのは、世の習わしかもしれません。
しかし、より善い哲学、考え方というのは、「敗」、すなわち「負け」を分析、検証することで生まれるのだと思います。そして、逆説的に言えば、「負ける」要因を徹底研究し、そこから「勝つ」という可能性を創造していく。それこそが、私の考える「武道哲学」なのです。
さらに、我が国の思想の文脈では、「優勝劣敗」ではなく、「自然の理法に適った者」にもたらされる価値が「勝」だと私は考えています。
ゆえに、私の武道は、「自ず(おのず)から然る」という日本的自然観を指針に新たな心身観を開拓する道なのです。言い換えれば、外部からの圧力や刺激など、他律的な事物に対し、それと一体化し、それを自律的に調整、昇華していく過程と結果が「勝」だというのが、私の現時点での武道哲学です。
もちろん、絶対的に正しいものがあるという価値観の上に立って述べているのではありません。ゆえに今後、人生修行の中で再考していこうと思います。最後までお付き合いいただき、有り難うございました。(笑い)