団塊Jrのプロレスファン列伝 -6ページ目

50歳、最後の闘魂 ~前編~

どうも、流星仮面二世です。

 

さて、このブログを始めて間もなく繋がり、仲良くさせていただいている紫レガさん(腕ひしぎ逆ブログ)

 

日頃からいろいろなお話をよくLINEでするのですが、それは2月9日。何気ないレガさんとのやり取りからでした。

 

「ところで流星さん、猪木お別れの会が決まってきましたね。当日はいかがされますか?」

 

猪木のお別れの会、かぁ・・・

 

前回のブログでも触れたのですが(燃える闘魂~アントニオ猪木追悼~)それこそ"追悼"という言葉すら引っ掛かっていました。そりゃ現実は受け入れてはいますが、改まって言葉で表されると気分が晴れないというか・・・そこには大人げなくモヤモヤとしてしまっている自分がいたのです。

 

そこにきて3月7日に開催が決まったお別れの会。当然"お別れ"という言葉にも引っ掛かからないわけもなく、心にブレーキをかけてしまう自分がそこにはいたのでした。

 

そして、それだけではありません。猪木が亡くなってからアントニオ猪木の名を冠したイベントこそいくつか行われましたが、それは本当に猪木への気持ちが表されたものだったのか?そのあたりに不信感があったのです。

 

もちろん紳士なそれもあったはず。でも、猪木の名前を出せば利益が出る。名が売れる。そんな不純な動機が関わった人間らの心に含まれていたならと考えると・・・偽善リスペクトの押し売りを目の当たりにするのだけはどうしても受け入れられない。そんな気持ちで及び腰にもなっていたのです。

 

察するに、レガさんも同じ気持ちのようでした。でもそれは、そう。せっかくデートまで漕ぎ着けたのに、お互い「好き」という言葉が出せない思春期の男女のような思い。まさしく、お互いに「行きましょう」と切り出せないモヤモヤ感が我々にはあったのでした。

 

しかし、3月7日はすでに有休を取ったというレガさん。

 

「とりあえずお休みを取りましたが本当にとりあえずでして」

 

とは言うものの、この言葉を聞いた瞬間、脳内が一瞬パッと光ったような気がしました。

 

「(これは、行かなくてはならない日だ)」

 

レガさんが行くのであれば、おれも行く!!ピンときて、そして決心したのでした。

 

それから話は進み、午前に行われるチケット制の一部の方に参加しましょうという結論に至りました。こうして翌日2月10日にスクランブル発進。急いで二人分のチケットを取得し報告しました。

 

するとレガさん、これは猪木の引退試合の数字ですね!!との返信が・・・

 

ホントだ、4並びだ・・・

 

チケット取ることばかりに集中して見逃していましたが、これは確かに・・・あの日、猪木の引退試合は98年の4月4日、午後4時からという4の並びであったことを思い出しました。

 

4年前に一緒に行ったドラディション(おれたちの8.8 ~平成最後に開花した昭和の夢~)が8.8へのケジメ。そして今回は引退試合の4.4へのケジメというレガさんのチケットのその数字は、もはや偶然から出たものとは思えません。やはり特別な意味のある日なんだと思わずにはいられませんでした。

 

こうして、開催までの約1ヶ月間。その間に行動の予定などを話したりして当日を待つ形となりました。が・・・ここで改めて思うことがありました。

 

それは取り巻かれる自身の周囲の事態のことでした。

 

この1年半というもの、家に帰ってきても休みの日でも、頭の中は常に仕事のことでいっぱい。何かをしていても集中できず、仕事のことばかり考えるようになっていました。プロレスの他、どんなに好きなことをしていても気がつくと仕事のことばかりが頭を過り、考え込んでは何をしても平常心が保てない状態。おかげで集中力もなくなり失敗も増え、ヘコんではまた仕事のことを考え・・・不安になったり苛立ったり。こんな休まらず眠れずの日々で身体は壊われ、病院にかかっては薬を飲みながらなんとかやっているような状態でした。

 

「もし心療内科なんか行ったら、鬱って言われんだろうな」

 

そんな会話も家庭でしながらの、この1年半でした。

 

アントニオ猪木の死去は、そんな中で突きつけられた現実でした。

 

同世代同士で話していると「その頃、一度プロレスから離れてしまって」という言葉を聞くことが多々あります。例外ではなく、ボクもそんな人間のひとりでした。

 

しかし、あのときは"現存するもの"に対し自ら離れていった。そして、その"現存するもの"は離れている間も現存していた。だから・・・離れても戻ってくることができたのではないかな?と思うのです。

 

でも今は"現存するもの"が少しずつなくなってきてしまっている。そう、自らが離れていくのではなく、プロレスの方が離れていってしまっている。愛したレスラーや関係者が姿を消していくたび、プロレスが遠退いていく。好きだった頃のプロレスが離れていく・・・アントニオ猪木の死は、それがもっとも表れてしまったものと感じずには・・・いられなかったのです。

 

今年から新日本やNOAH、全日本が交流をし始めたことにより、自分の周りで話題に上がることが多くなりました。しかし近年は新日本を観る機会も減り、NOAHや全日本はそもそも見たことがありませんでしたので、話が出ても何だかさっぱりわからず。ついて行けず困ることが多くなっていました。

 

古いプロレスも新しいプロレスも遠くなっていく・・・潮時なのかなぁ・・・最近は特にそんな気持ちが強くなっていました。

 

でも、そんなときレガさんは北海道からお別れの会にやって来るのです。猪木に、感謝の気持ちを伝えたい。それをするために遥々と来るのです。

 

でも、それだけではありません。前日は自分の家のある茨城に来て宿泊してくれるというのです。そう本来、両国国技館へ行くのであれば成田空港から東京へ向かい、そちらで一泊した方がはるかに近く経費もかからず、体も楽なのです。なのに倍の時間をかけ、前日わずかでもと茨城のこんな田舎まで会いに来てくれるというのです。

 

おれにもまだ、こんな素敵なプロレス仲間が、友達がいたんだ。おれにもまだプロレスがあったんだ。メンタルはズタズタだけど、少しでも楽しんでもらえるようレガさんをサポートし、自身も感謝の気持ちを伝えに行こう。改めてそう決めました。

 

こうして日が迫り前日となる3月6日の夕方。約4年ぶりにレガさんと再開を果たしました。リモートではお顔を合わせていたのですが、対面は本当に久しぶりです。

 

固い握手で再開後、夕飯をご一緒しようとふたりで出掛けました。場所は地元のとっておきの隠れ名店。我が家でも、いざというときにしかご招待しない伝家の宝刀的なとんかつ屋です。ここでうまいものを腹一杯堪能してもらいながら存分にプロレス話をしようと意気揚々と向いました。が・・・到着すると、何やら店の雰囲気がちょっとちがいます。よくよく覗いてみると・・・

 

て!?定休日ぃ!?そそ、そんなぁー!!

 

前日も調べて今日のお昼も調べて開店しているとなっていましたが、昼と夜と営業時間のあるこの店。どうやらこの日は夜だけお休みになってしまったようなのです。

 

なんてことだ・・・やっぱりダメなときは何してもダメなんだろうか・・・

 

ということで申し訳ない気持ちいっぱいのまま、チェーン店の焼き肉屋さんへ。ここでようやく腰を据え乾杯しました。

 

老眼と近年の波である卓上のタブレットでの注文に四苦八苦しながら近状などを話し、やがて話題は翌日のお別れの会のお話となりました。実のところ当日は何がどのように行われるのか?詳しい内容は発表されていなかったので「どんな進行なんですかねぇ?」というのがあったのです。

 

しかしそれよりもさらに気になったのは当日の参加者のことでした。この何日か前に会の発起人が発表されたのですが、そこにはまず森喜朗、野田佳彦の元総理に我々が愛して止まない鈴木宗男ら政界の大物の名が並んでいました。そしてプロレスから坂口、藤波に武藤、蝶野はもちろん、前田、髙田、佐山の名前があったことに良い意味で緊張感が漂っていたのです。

 

「発起人だからって必ず来場するとはかぎらないでしょうけど、もし・・・」

 

そう、同じ会場に揃うだけでも十分です。さらに松山千春の名。これも、もう二度とないことだと思います。亡くなってなお、猪木の力を感じる瞬間でした。

 

そして次に出てきたのが

 

「飯塚さん、来ますかね?」

 

という話題でした。

 

飯塚さん、猪木ファンなら知らない人はいないはずです。そう"世界一強い男 アントニオ猪木 頑張れ!!"の幟を猪木のビッグマッチの度に会場で掲げてきたプロレスファンのレジェンド、歴史の生き証人です。2019年の4月26日、後楽園ホールで行われた「DRADITION 2019 NEVER ENDING DREAM TOUR」(おれたちの8.8 ~平成最後に開花した昭和の夢~)で、会場でお声をかけ記念撮影をさせていただき、その後レストランで偶然再遭遇。貴重なお話から猪木譲りのダジャレトークで楽しませていただいたのです。

 

「飯塚さん、会いたいですね~」

 

連絡先などはわかりませんし、そもそも来るかどうかもわかりません。来たところで相当な人数の来場が予想される当日。そこで会うなんて雲をつかむような話かもしれません。それでも、姿だけでも見れたらとわずかな期待を膨らませるのでした。

 

そんなおり、レガさんのスマホにTwitterからDMが入ってきました。なんとレガさんやボクのブログでやり取りのあるスパさんが明日来るとのことで、お会いしませんか?との連絡がきたというのです。

 

スパさんとは、ボクもレガさんももう長い付き合いになります。きっかけはレガさんのブログのコメントからだったのですが、そこからこのブログを知ってくれてコメントしてくれるようになったことでお付き合いが始まった仲間です。しかし、実はスパさんとのお付き合いは、それだけではありませんでした。

 

それはもう十数年前にもなります。あるとき、ゲーリー・オブライトのスープレックス特集の自作DVDをお送りしたいというご連絡をいただき、ありがたく頂戴しますと住所を交換しました。その住所というのが高校時代、年末に部活で毎年合宿を行ったところの近隣だったので、ほんの軽い気持ちで「○○○○高校なんて近くでしたか?」と伺ったところ「その高校の出身なんですよ」と返ってきて・・・まさかと思い部活を聞くと、なんとボクと同じ部活だったんです。つまりスパさんは、かつて一緒に合宿したり、大会ではライバル校として対戦もしていたいわば戦友。苦楽を共にした同志だったのです。

 

まさかのまさか・・・人の運命、巡り合わせは本当にわからないものなんだなと、つくづく思ったものでした。

 

そんなスパさんとお会いするとなると32、3年以上ぶりの再会となります。この時点で感激しかありませんでした。

 

その後もプロレスのことからプライベートなことまで、楽しい笑い話や真剣なことまでたくさんのことを話しました。それにしても不思議です。レガさんとは実際には遠く離れて暮らしているのに、こうしているといつも会って話しているよう。しかも、なんでも話せてしまうんだよなぁ・・・

 

そんなことを考えているその間も、レガさんはずっと肉を焼いてくれていました。その姿を見てさらに思いました。そう以前も感じたのですが、こうして会っていると何か?なんだっけかなぁ?何かを思い出しそうになる・・・顔を見てると、あれ?って、何か思い出しそうになる。でも、思い出せない。何をなんだろうか?不思議。本当に不思議な感覚になるのでした。

 

こうしてたくさんお話し、別れ際。以前から「明日はあるプロレスのTシャツを着ていきます」と言っていたのですが、それなら!と、とっておきのものをプレゼントしようと考えていました。

 

それは今はもう売っていない猪木の秘蔵のTシャツでした。これを着てぜひ行ってもらいたい。そう思い別れ際に「明日、着てください」とお渡しし、この日はお別れしました。

 

家に帰ってきてひといき。嫁に無事再会できたよ。おみやげたくさんいただいちゃったよ~。あげたTシャツ、喜んでくれてた?などなど話をしているとレガさんからLINEが入っていることに気づきました。なんだろ?出発時間の変更かな?と思い覗いてみると・・・

 

「明日の準備をしつつハンガーにお掛けしたところ・・・」

 

というところまで読んだところで、送られてきた画像が目に飛び込んできました。

 

ん!?

 

んんんー!!

 

こ、これは先ほど渡したTシャツ・・・だがしかし、なぜこんなビリビリのビリー・ジャック・ヘインズに!?

 

すいません!!と謝るレガさん。いや、これは・・・これはレガさんのせいではありません。そう、Tシャツは未開封品とはいえ、もう25年以上は経過しているシロモノです。見た目はきれいでも、もはや古すぎて劣化してしまっていたんです。

 

なんてこった。いつものおれなら確認してから渡すのに、ろくに見ないで渡してしまうとは!!あああーおれはなんてものを渡してしまったんだぁー!!何が「明日、着てください♪」だ!!こんな外国人レスラーに振り回されたあとの沖識名レフリーみたいなの、着てけるか!!

 

とりあえず明日ちがうものを改めてお渡ししますということを伝えました。が、こちらのお返事が遅くなってしまったこともあり返信はありませんでした。明日持っていって、もうそれで勘弁してもらうしかないです。本当にもう、なんだろうなおれは・・・まいったなぁ・・・

 

やっぱり・・・ダメなときは何してもダメなのかなぁ・・・

 

明日は何もやらかさなければいいんだけど・・・しかし翌日、この予感がまんまと的中してしまうのです。

 

中編へ続きます。

 

燃える闘魂~アントニオ猪木追悼~

どうも、流星仮面二世です。
 
さて、これまで・・・たくさんの思い出をくれたレスラーへ感謝を込めて、ささやかではありますが追悼記事を書きご紹介することがありました。でも、まさかこんな日が来てしまうなんて・・・夢にも思いませんでした。

そう、2022年10月1日です。その日の朝、ふとスマホを、本当に何気なく覗いただけだったんです。そしたら「アントニオ猪木、死去」という信じられない言葉が飛び込んできたのです。

「いや、いやいやいや・・・」

すぐにスマホを閉じ、ひとり部屋をうろうろ。そわそわと、そして・・・

「あ!そうだ!!また誤報だ。誤報なんだ。そうだ以前も生きているのに死亡説が流れたことあったじゃないか。また何かのまちいだ。そうにちがいない」

と、そう思って、そう思い、そう思いたかったのに・・・時間と共に猪木に関するネットのニュースが増えていき、徐々に詳細も明らかになっていったのです。
 
「ダメだ、ダメだぁ!!あ~ダメだ・・・あ~・・・」
 
その後、
 
「猪木が亡くなっちゃったよ・・・」
 
と、嫁に一言言うと、布団に入り動けなくなりました。
 
「ダメだ、本当に亡くなってしまったんだ・・・」

その他には何も考えられず、ただ天井を見つめるばかり。その間、友達や知人からLINEやメールが届きます。読んで、返信して・・・でも、それは見えているようで見えていなかったのかもしれません。
 
次の日になると少し冷静になれたような気がします。でも我に返ると猪木のことを考えているような状態でした。
 
そう最初の記憶はパク・ソンナン戦での一瞬だった。そして物心ついた頃は怖くて父親の背中に隠れながら見ていたタイガー・ジェット・シンとの戦い。それから広島での逆ラリアート、スタン・ハンセンとの一戦でプロレスに完全覚醒。ハンセン、アンドレ、ホーガン・・・猪木が自分より大きなレスラーを倒す姿を見るたび、様々な思いを巡らせながら今日までファンとして歩んできたのです。
 
アントニオ猪木。ボクはサインももらったことないし、握手もしたことなければツーショット写真も撮ったことありません。入場時に触ったこともないのです。だから・・・小学生時代、幼馴染みが「親戚に記者の人がいて・・・」と、見せてくれた名前入りの猪木のサインは死ぬほどうらやましかったし、テレビの特番でやっていた猪木と子供たちが無人島に行くやつなんか嫉妬で地団駄踏んで見ていたものでした。テレビの中のスーパーヒーロー、本当に雲の上の人だったんです。
 
でも、そんな遠い遠い存在のスーパーヒーローと、生涯でたった一度だけ"ふたりだけの時間を共にした"ことがありました。
 
それは1995年1月4日に東京ドームで行われた新日本プロレスの「'95闘強導夢 BATTLE 7」でのことでした。

この前年の94年2月24日、猪木は日本武道館で引退へのカウントダウンを宣言。同年5月1日、福岡ドームでのグレート・ムタ戦を皮切りに9月23日に横浜アリーナでウィレム・ルスカ戦。そしてこの日は「INOKI FINAL COUNT DOWN 3rd 格闘技トーナメント」と銘打って行われた第3戦目でした。
 
そもそもボクはプロレス会場には早めに行く方ですが、その日は不思議なことに前日からそわそわ。なぜか

「明日はいつもより早く行かなくてはならない」

という気持ちになり、通常よりかなり早くに家を出たんです。この頃は、まだ結婚前の嫁と一緒にプロレスを観に行っていたのですが、もちろん嫁にも早く出てもらい行きました。
 
そして到着すると、自分が入る入場ゲートに一番乗りで並びました。当然、まだ誰も並んでいません。こんなに早く・・・と当時の嫁も不思議がっていましたが、なぜかこの日は「この時間でなくてはならない」という気持ちになってなって仕方がなかったのです。
 
こうして長い待ち時間を経て入場すると、座る席ではなく、なぜかリングを目指しアリーナを早足で突っ切るように進んでいきました。それこそ引力にひかれるかのようにです。それにしても、今考えても不思議です。なぜあの日に限ってそんな行動を取ったのか・・・
 
かくしてリングへと接近していくと石沢(ケンドー・カシン)がリングを離れ歩いていくのが見えました。そして石沢とアップをし終えたばかりの猪木が、ひとりリングサイドのエプロンに汗をかき、まだ息を切らしたまま座っているのが見えたのです。
 
「ちょ、ちょっと先に行くね!!」
 
と嫁に言い残し全力疾走。やがて鉄柵を挟み、エプロンに座る猪木の目の前に息を切らしながら到達しました。周囲には関係者はおろか、ファンもまだひとりもいません。今この瞬間、自分の目の前に、手の届きそうなところにアントニオ猪木がいるのです!!
 
初めて生観戦をし猪木を生で見た84年のサマーファイトシリーズ。そして入場で触ろうとして接近しながらもついに触れなかった新日本2度目の観戦のチャレンジスピリット85。近づいても遠かったスーパーヒーローとの、そんな幼き日の思い出が甦り、ハアハアしながら涙目の笑顔となってしまっていました。
 
そんな異様な姿で見つめるボクと、それを汗だくのまま
 
「なんだ・・・?」
 
と言わんばかりの表情でジーッと見つめる猪木。ああ、このままずーっと見つめ合っていたい。しかし、やがて他のお客さんが入って来はじめると猪木はエプロンから立ち、控えの方へ歩いていってしまいました。
 
その後、あとから追いついてきた嫁が
 
「あんな近くにいて~!!握手してもらえばよかったのに」
 
「いや、試合前に失礼かと思って・・・」
 
そう、そりゃ握手したかったです。でも、小さい頃から試合前のレスラーは緊張や集中でピリピリしていたりするので、わきまえないと・・・そういうのはダメなんだというのが今だどこかあって、踏み出せなかったんです。
 
こうして貴重な時間は終わってしまったのですが、この広い東京ドームの真ん中で猪木とふたりだけで見つめ合う。その間わずか1分くらいでしたが、人生で最初で最後となる猪木との"対面"は生涯、忘れられない思い出となりました。
 
そんなことを思い返しながら、CSでやっていた猪木の追悼番組で流れた猪木vsゴルドー戦を見ていると、一緒に見ていた嫁が
 
「このとき(リングサイドに)走ってくの、早かったよね~」
 
と言いました。
 
早かった、かぁ・・・そうだよな。夢中で追いかけていたプロレス。その象徴こそアントニオ猪木だったからなぁ・・・
 
あれから27年になるのか・・・
 
本当に、本当にいろいろなことが頭を過りました。中でも一番過ったのは「もし猪木がいなかったら、おれはプロレスを見ていたんだろうか?好きになっていたんだろうか?」ということでした。
 
家族でプロレス好きだった生家のおかげで、ボクは乳飲み子の頃からワールドプロレスリングのかかった部屋にいました。しかし猪木がいなかったら、まずこのプロレスの放送が存在しなかったはず・・・プロレスを知る機会がなかったということになります。いや、仮にプロレスを知る機会があったとして、はたして幼少の自分が猪木のいないプロレスに興味を持てたかどうか・・・
 
それどころか、猪木がいなければ日本のプロレスは日本プロレスの馬場さんの時代までで終息してしまっていたかもしれません。だからプロレス自体がない世界になっていたかもしれません。総合格闘技もアメリカンプロレスも、アナウンサーの実況も歌や音楽もキャラクター商品も食文化も、そして国政も。いろいろなものが今とちがう、別の世界になっていたのかもしれません。出会える人にも出会えず、生まれるものも生まれず・・・今、この時点で別の世界で、自分が自分でなかったかもしれないのです。
 
「アーントニオー」のコールと共に右腕でバッとガウンの紐をほどき「イノーキー」で五色のテープが飛び交う中、両腕をバッと広げる。大好きだったあのシーン。


憧れたあの姿は、プロレスラーの姿を借りてこの世に降臨した"神様"の姿を表したもの、だったんじゃないだろうか?猪木は、この世に様々なものを与える神様だったんじゃないだろうかと・・・最近は強く思うようになりました。
 
メディアや書籍で、一般人から要人まで。プロレスというジャンルにこだわらず現在でも世界中が猪木を偲んでいろいろなことを行ってくれています。もうこの世にはいない。でも、今だ様々な形で様々なものをこの世に与え続けています。だから、やっぱり猪木は神様で、今は本当の姿へ、本来の場所へと戻ったんだと、そう思えてなりません。
 
追悼という言葉を使いたくなくて、躊躇していて今頃になってしまいました。踏ん切りではないですが、亡くなったのではなく天へ還っていった、昇天したアントニオ猪木を思うことで、自分もまた踏み出していけそうです。

同じ時間の中を過ごせたことを誇りに思います。自分をプロレスへと導いてくれた猪木さん。感謝しかありません。本当にありがとうございました!!
 

ボクは、ここにいる~Returns~

どうも!!流星仮面二世です。

 

今回はとても私的な、個人的なお話になってしまいますが・・・すいません。

 

さて、以前ここでこんな記事を書いたことがありました。

 

ボクは、ここにいる

 

あれから、約3年。その後も音信はなく、もうダメなんだろうな・・・遠い昔の思い出になってしまったんだなぁ~と・・・思うようになっていました。

 

そんな今年。前回ブログでもお伝えしましたが、偶然にも同じ3年という歳月を経て、久々に新日本プロレスを観戦に東京ドームへ行きました。

 

そう、東京ドームへ向かえば必ず目に入る東京ドームホテル。歩きながら見上げ「ここで会ったんだよな」と思うと、今はどうしているのかな・・・と、ふと当時のことが頭を過ったのでした。

 

その翌日。今年の1月5日です。1.4の観戦記を作ろうとアメブロのホームを開くと、メッセージボックスに信じられない、なつかしい名前があることに気づかされました。

 

「あ~、あ~!!あー!!!」

 

スマホを持ったまま右往左往。久しぶりに見るハンドルネーム、なつかしい文脈・・・まちがえるわけがありません。そうです、ご本人から連絡が来たのです。

 

うれしい、本当にうれしいメッセージでした。待っていたメッセージでした。また繋がることができた・・・そう思うと感情が解放してしまい、目頭がジーンと熱くなるのがわかりました。

 

ご連絡、本当にありがとうございました。

 

そうそう、久しぶりの再会なんだから、当時流のごあいさつもしておきませんとね。

 

おれたちは、道理の通らぬ世の中に敢えて挑戦する、頼りになる神出鬼没の特攻野郎Aチーム!!

 

助けを借りたいときは、いつでも言ってくれ!!


これから、またよろしくお願いいたします。