燃える闘魂~アントニオ猪木追悼~ | 団塊Jrのプロレスファン列伝

燃える闘魂~アントニオ猪木追悼~

どうも、流星仮面二世です。
 
さて、これまで・・・たくさんの思い出をくれたレスラーへ感謝を込めて、ささやかではありますが追悼記事を書きご紹介することがありました。でも、まさかこんな日が来てしまうなんて・・・夢にも思いませんでした。

そう、2022年10月1日です。その日の朝、ふとスマホを、本当に何気なく覗いただけだったんです。そしたら「アントニオ猪木、死去」という信じられない言葉が飛び込んできたのです。

「いや、いやいやいや・・・」

すぐにスマホを閉じ、ひとり部屋をうろうろ。そわそわと、そして・・・

「あ!そうだ!!また誤報だ。誤報なんだ。そうだ以前も生きているのに死亡説が流れたことあったじゃないか。また何かのまちいだ。そうにちがいない」

と、そう思って、そう思い、そう思いたかったのに・・・時間と共に猪木に関するネットのニュースが増えていき、徐々に詳細も明らかになっていったのです。
 
「ダメだ、ダメだぁ!!あ~ダメだ・・・あ~・・・」
 
その後、
 
「猪木が亡くなっちゃったよ・・・」
 
と、嫁に一言言うと、布団に入り動けなくなりました。
 
「ダメだ、本当に亡くなってしまったんだ・・・」

その他には何も考えられず、ただ天井を見つめるばかり。その間、友達や知人からLINEやメールが届きます。読んで、返信して・・・でも、それは見えているようで見えていなかったのかもしれません。
 
次の日になると少し冷静になれたような気がします。でも我に返ると猪木のことを考えているような状態でした。
 
そう最初の記憶はパク・ソンナン戦での一瞬だった。そして物心ついた頃は怖くて父親の背中に隠れながら見ていたタイガー・ジェット・シンとの戦い。それから広島での逆ラリアート、スタン・ハンセンとの一戦でプロレスに完全覚醒。ハンセン、アンドレ、ホーガン・・・猪木が自分より大きなレスラーを倒す姿を見るたび、様々な思いを巡らせながら今日までファンとして歩んできたのです。
 
アントニオ猪木。ボクはサインももらったことないし、握手もしたことなければツーショット写真も撮ったことありません。入場時に触ったこともないのです。だから・・・小学生時代、幼馴染みが「親戚に記者の人がいて・・・」と、見せてくれた名前入りの猪木のサインは死ぬほどうらやましかったし、テレビの特番でやっていた猪木と子供たちが無人島に行くやつなんか嫉妬で地団駄踏んで見ていたものでした。テレビの中のスーパーヒーロー、本当に雲の上の人だったんです。
 
でも、そんな遠い遠い存在のスーパーヒーローと、生涯でたった一度だけ"ふたりだけの時間を共にした"ことがありました。
 
それは1995年1月4日に東京ドームで行われた新日本プロレスの「'95闘強導夢 BATTLE 7」でのことでした。

この前年の94年2月24日、猪木は日本武道館で引退へのカウントダウンを宣言。同年5月1日、福岡ドームでのグレート・ムタ戦を皮切りに9月23日に横浜アリーナでウィレム・ルスカ戦。そしてこの日は「INOKI FINAL COUNT DOWN 3rd 格闘技トーナメント」と銘打って行われた第3戦目でした。
 
そもそもボクはプロレス会場には早めに行く方ですが、その日は不思議なことに前日からそわそわ。なぜか

「明日はいつもより早く行かなくてはならない」

という気持ちになり、通常よりかなり早くに家を出たんです。この頃は、まだ結婚前の嫁と一緒にプロレスを観に行っていたのですが、もちろん嫁にも早く出てもらい行きました。
 
そして到着すると、自分が入る入場ゲートに一番乗りで並びました。当然、まだ誰も並んでいません。こんなに早く・・・と当時の嫁も不思議がっていましたが、なぜかこの日は「この時間でなくてはならない」という気持ちになってなって仕方がなかったのです。
 
こうして長い待ち時間を経て入場すると、座る席ではなく、なぜかリングを目指しアリーナを早足で突っ切るように進んでいきました。それこそ引力にひかれるかのようにです。それにしても、今考えても不思議です。なぜあの日に限ってそんな行動を取ったのか・・・
 
かくしてリングへと接近していくと石沢(ケンドー・カシン)がリングを離れ歩いていくのが見えました。そして石沢とアップをし終えたばかりの猪木が、ひとりリングサイドのエプロンに汗をかき、まだ息を切らしたまま座っているのが見えたのです。
 
「ちょ、ちょっと先に行くね!!」
 
と嫁に言い残し全力疾走。やがて鉄柵を挟み、エプロンに座る猪木の目の前に息を切らしながら到達しました。周囲には関係者はおろか、ファンもまだひとりもいません。今この瞬間、自分の目の前に、手の届きそうなところにアントニオ猪木がいるのです!!
 
初めて生観戦をし猪木を生で見た84年のサマーファイトシリーズ。そして入場で触ろうとして接近しながらもついに触れなかった新日本2度目の観戦のチャレンジスピリット85。近づいても遠かったスーパーヒーローとの、そんな幼き日の思い出が甦り、ハアハアしながら涙目の笑顔となってしまっていました。
 
そんな異様な姿で見つめるボクと、それを汗だくのまま
 
「なんだ・・・?」
 
と言わんばかりの表情でジーッと見つめる猪木。ああ、このままずーっと見つめ合っていたい。しかし、やがて他のお客さんが入って来はじめると猪木はエプロンから立ち、控えの方へ歩いていってしまいました。
 
その後、あとから追いついてきた嫁が
 
「あんな近くにいて~!!握手してもらえばよかったのに」
 
「いや、試合前に失礼かと思って・・・」
 
そう、そりゃ握手したかったです。でも、小さい頃から試合前のレスラーは緊張や集中でピリピリしていたりするので、わきまえないと・・・そういうのはダメなんだというのが今だどこかあって、踏み出せなかったんです。
 
こうして貴重な時間は終わってしまったのですが、この広い東京ドームの真ん中で猪木とふたりだけで見つめ合う。その間わずか1分くらいでしたが、人生で最初で最後となる猪木との"対面"は生涯、忘れられない思い出となりました。
 
そんなことを思い返しながら、CSでやっていた猪木の追悼番組で流れた猪木vsゴルドー戦を見ていると、一緒に見ていた嫁が
 
「このとき(リングサイドに)走ってくの、早かったよね~」
 
と言いました。
 
早かった、かぁ・・・そうだよな。夢中で追いかけていたプロレス。その象徴こそアントニオ猪木だったからなぁ・・・
 
あれから27年になるのか・・・
 
本当に、本当にいろいろなことが頭を過りました。中でも一番過ったのは「もし猪木がいなかったら、おれはプロレスを見ていたんだろうか?好きになっていたんだろうか?」ということでした。
 
家族でプロレス好きだった生家のおかげで、ボクは乳飲み子の頃からワールドプロレスリングのかかった部屋にいました。しかし猪木がいなかったら、まずこのプロレスの放送が存在しなかったはず・・・プロレスを知る機会がなかったということになります。いや、仮にプロレスを知る機会があったとして、はたして幼少の自分が猪木のいないプロレスに興味を持てたかどうか・・・
 
それどころか、猪木がいなければ日本のプロレスは日本プロレスの馬場さんの時代までで終息してしまっていたかもしれません。だからプロレス自体がない世界になっていたかもしれません。総合格闘技もアメリカンプロレスも、アナウンサーの実況も歌や音楽もキャラクター商品も食文化も、そして国政も。いろいろなものが今とちがう、別の世界になっていたのかもしれません。出会える人にも出会えず、生まれるものも生まれず・・・今、この時点で別の世界で、自分が自分でなかったかもしれないのです。
 
「アーントニオー」のコールと共に右腕でバッとガウンの紐をほどき「イノーキー」で五色のテープが飛び交う中、両腕をバッと広げる。大好きだったあのシーン。


憧れたあの姿は、プロレスラーの姿を借りてこの世に降臨した"神様"の姿を表したもの、だったんじゃないだろうか?猪木は、この世に様々なものを与える神様だったんじゃないだろうかと・・・最近は強く思うようになりました。
 
メディアや書籍で、一般人から要人まで。プロレスというジャンルにこだわらず現在でも世界中が猪木を偲んでいろいろなことを行ってくれています。もうこの世にはいない。でも、今だ様々な形で様々なものをこの世に与え続けています。だから、やっぱり猪木は神様で、今は本当の姿へ、本来の場所へと戻ったんだと、そう思えてなりません。
 
追悼という言葉を使いたくなくて、躊躇していて今頃になってしまいました。踏ん切りではないですが、亡くなったのではなく天へ還っていった、昇天したアントニオ猪木を思うことで、自分もまた踏み出していけそうです。

同じ時間の中を過ごせたことを誇りに思います。自分をプロレスへと導いてくれた猪木さん。感謝しかありません。本当にありがとうございました!!