プロレス作品を探せ~プロレスの星アステカイザー~
というわけでこちらは過去に存在したプロレス作品を探してご紹介しようという企画です。
一回目の今回はこれ
“プロレスの星アステカイザー”
うーん、題名がズバリプロレスの星とは恐れ入る。が・・・実はボクは全く見たことがない・・・
記憶にあるのは小学校のとき誰かが持ってきた特撮ヒーロー図鑑みたいな本にアントニオ猪木が載っていて、なんだ?とよく見たらアステカイザーと書いてあったというくらい。でもそれも記事スペースは小さかったし白黒だった。正直微妙だ・・・
ま、とにかくアントニオ猪木が出演していたことという情報以外はさっぱりわからない。ということで調べてみた。
アステカイザー、原作はなんと永井豪、石川賢のゲッターロボ・コンビ。しかし製作は円谷プロ!!そこにきて新日本プロレスの全面協力という・・・これは豪華というか異例なメンツがそろった作品だったようだ。しかしその放送期間は昭和51年10月から昭和52年3月までのたったの6ヶ月だったそうで・・・いいのかわるいのか、わからない点もあった。
あらすじは主人公・鷹羽俊が恐怖の格闘集団(どんな生業の集団なんだ?)ブラックミストに殺された兄・鷹羽大二郎の仇とスポーツ界を守るためアステカイザーに変身しブラックミストのサイボーグレスラーと戦うというお話。なるほど、そういうわけか・・・
しかしなんだなぁ。アステカイザー、時代的に宇宙鉄人キョーダインや忍者キャプター、怪傑ズバットとかぶるが・・・キョーダインやキャプター、ズバットはよく覚えているのにアステカイザーが覚えていないというのはどうしてなんだろう?
ボクはズバットの頃は4歳くらいだったから、さすがにリアルでは覚えていない。でも再放送って当時はあたりまえにやるもんだったから、それで見ていて好きだった。あーゴレンジャーの人が出てるって喜んでみてたのよく覚えてる。ズバットの歌も歌えたし飛鳥五郎という男を殺したのはおまえかー!!なんて言ってよく兄と遊んだもんな。
そう考えるとアステカイザーはボクの好きな条件を満たしているわりに記憶にない。うーん、どうしてだろう?再放送、しなかったのかなぁ・・・?
現在DVDも出ているらしいが、見たい気はするけど買うってのもなぁ・・・
若かりし佐山も出ているというし、プロレスファンとしては見ておくべきなんだろうか・・・
アントニオ猪木とアステカイザー
必殺技を語ろう!第一回 ~バックドロップ~
ゴング早々、ヘッドロックに来た蝶野にいきなり見舞ったんですよねぇ~。あれを見てて度肝を抜かれたファンは果たして日本に何人いたことか・・・
試合開始直後、解説の小鉄さんの
「構えはかわらないですね」
の言葉にもしびれました。いやはや鉄人です!!
アントニオ猪木 その1
大型外人との対戦、大物日本人対決、異種格闘技戦と、幾多の名勝負の核となった猪木のバックドロップは繰り出されるタイミングも絶妙。欠かせないものでした。画像は新日道場にも大パネルであった(今はどうなんだかわからないですけど)大木金太郎戦でのフィニッシュの一撃。見事な一発です!!
アントニオ猪木 その2
そしてそんな猪木の最高にしてすごいバックドロップ!これじゃないですかねぇ?
いろいろな選手との対戦で見せ場を作ってきた猪木のバックドロップですが、ボクは昭和50年10月、蔵前で行われたNWF戦でルー・テーズと対戦したときに本家テーズに猪木が決めたこの一撃こそ猪木最高のバックドロップだったんじゃないかなぁーと・・・思うんですよね。どうですかこれ!!見事ですよね!!
何がすごいのかって、テーズにバックドロップしちゃうというのがやっぱすごい。これは普通おそれ多くてできないよね。でもやっちゃうんですよ。この辺が猪木のすごいところだと思いますね。
ジャンボ鶴田 その1
さてジャンボ鶴田です。
ジャンボのバックドロップ。プロレスファンの印象で鶴田のバックドロップといわれ一番最初に頭に思い浮かぶのはやはり画像のニック・ボックウインクルとのAWA世界戦でのバックドロップ・ホールドじゃないですかね?
ねー、ニックを見てくださいよ!この軌道、ほぼジャーマン・スープレックス・ホールドですよね!!すごい!!
ジャンボ鶴田 その2
しかしボク的には小学校の頃に見てどうしても忘れられないのがこちらの一番。83年のジャイアント・シリーズに来日したワンマン・ギャングとの試合で放ったこのバックドロップです。
身長205センチ、体重190キロという超大型のギャングをクラッチし、完全にバックドロップで投げきったんですね。どうですか~?すごいですよね~!!
ジャンボ鶴田 その3
そして、さらにすごいと思ったのが、この87年のインターナショナル選手権のバックドロップでした。
この当時、ブッチャーと同じくらいの体重のレスラーはたくさんいました。しかし投げるということでいえば、こんな丸みを帯びた掴みどころがない体型ほどやりずらいものはないんですね。上背がないブッチャーは知ってのとおり超アンコ型。ただでさえ脂肪部分が厚く軟らかく掴み所がない体です。しかも重心が低いときています。これだけでも十分投げづらいのに、ブッチャー自体が試合で相手の投げを安易に受けるタイプではありませんでした。そんなブッチャーをバックドロップでこうも完全に投げたレスラーは、ちょっといないと思います。
通常のレスラー体型はもちろん、ギャングのような超大型でもブッチャーのような丸々とした体型でも・・・相手を選ばず完全に投げきることが出来た鶴田のバックドロップこそプロレスの流儀とテーズ流を受け継ぎ、超えんとしていたのではないかな?ボクはそんな気がします。
後藤達俊
猪木、鶴田以降はヘソ投げを継承しフィニッシュとするレスラーはしばらく皆無と思われましたが、若手時代より素晴らしいブリッジの高角度バックドロップを得意技とし、威力という点では猪木、鶴田に劣らない名手がいました。そう、ご存知ミスターバックドロップこと後藤達俊です!
クラッチを外すことなく最後までブリッジし、真っ逆さまに落とす・・・いやー見ているだけで戦慄を感じさせるバックドロップですが、まさに文字通りの戦慄は今でもファンの間で語り草の90年6月12日、福岡国際センターでの8人タッグで馳浩を心臓停止に追い込んだ高角度バックドロップではなかったでしょうか?そうです、実はこの画像がまさにそれなんです!!
まさしく、プロレスとは紙一重とみつけたり、ですね・・・
川田利明
見るたびに危険さを増していきドキっとさせられた垂直落下のバックドロップといえば四天王プロレス時代の川田利明のバックドロップ。改めてみると、なんだこれは!!という角度にびっくりです。
あの頃は、こんな技が決まるたび、もうだめだー!いやカウント2.8で返した!!また出た!今度はダメだろー!!うぉぉーまたカウント2.9で返した!!なんていう攻防にファンは酔いしれ釘付けにされたものでした。
しかし・・・四天王プロレスがファンに提供しものの代償はレスラーにとってあまりにも酷なものだったことを忘れてはなりません。暴露本の乱発でロクにプロレスを知らない人までが裏を軽く言うようになった今の時代ですが、レスラーはいつも命がけだったということを忘れてはいけないと強く思います。
スティーブ・ウイリアムス
全日時代から殺人バックドロップと呼ばれていたスティーブ・ウイリアムスのそれも抜群の技でしたが・・・実はウイリアムス、日本登場当時の初期の新日マットではヘソ投げでなく、後で紹介します相手の足を持っての抱え式でした。しかもジャンプしながらパワーで投げていて・・・猪木、藤波はだいぶ苦しめられたんですよねー。
そんなウイリアムスがヘソ、いや引っこ抜きというべきかな?あのバックドロップで投げるようになったのは新日にレッドブル軍団が登場した頃だったんじゃないでしょうか?
画像は89格闘衛星東京ドームでのサルマン・ハシミコフ戦ですが、このバックドロップは大きな弧を描き最後まで反りきっていました。まさに後の殺人バックドロップが産声を上げた瞬間だったとボクは思っています。
さぁ次はこちら
ひねりを加えたバックドロップ
いってみましょう。
マサ斎藤
ひねりを加えたバックドロップといえばマサ斎藤ですね!!
その独特の投げ方からアメリカではサイトー・スープレックスと呼ばれていたほどマサ斎藤の代名詞。この画像のバックドロップはどうですか!!完全に胸に乗せて投げています。そのスピード、落差は見事です。東京五輪のレスリング日本代表、さすがです!!
長州力
そのマサ斎藤を心の師と仰ぐ長州力のバックドロップも豪快なひねりで、いくつもの名勝負には必ず繰り出される長州の代名詞技でした。
名勝負数え歌で藤波とやり合っていた頃の長州のバックドロップは、持ち上げて2、3歩くらいちょこちょこっと前に歩いて後に落とす感じでした。だから・・・当時それを一緒にテレビで見ていたウチのばあちゃんと母親は長州のバックドロップが出るたびに
「おー、じんだし(地団駄のことです)踏んだ!!これが出っと、はりこんでんだ(張り切っているんだ、の意)」
と盛り上がったものでした。ちなみに父親は長州のバックドロップが出ると
「お、長州の16番が出たな!」
といつも言っていました。よく一番の得意技を18番というじゃないですか?多分、その手前の得意技っていうことで16番だったんでしょうねぇ~。
ってぜんぜんバックドロップの話じゃないですね、すんません・・・
高田延彦
ブリッジワークの効いた各スープレックスはキック、サブミッションと並びUWFの真骨頂でしたが高田延彦のバックドロップはひねりを加えたものでした。
ジュニア時代から数々の試合で見られたこのバックドロップはダメージを与えるのはもちろん、勝負の流れを変えたりするのによく使われました。そして同じひねりでも斎藤、長州とちがい高田のそれは弧の描き方が大きかったので見た目も威力も素晴らしいものだったと思います。
画像はあの95年10月の新日本vsUインター、武藤戦での一撃です!!
お次は
抱え式バックドロップ
です。
バーン・ガニア
AWAの帝王バーン・ガニアの抱え式です。通常の抱え式は相手の膝の裏を抱えますがガニアは股から抱えていますね。しかも・・・ボクは実際のを見たことはないのですが、ガニアの抱え式はこの状態から少し旋回しながら投げたとか。抱え式といってもオリジナリティーがあったんですね。ちなみに投げられてるのはビル・ロビンソンです。
ドリーファンク・ジュニア
ドリーは試合もうまいしプロレスラーとしては超一流の部類に入る名レスラーなんですが・・・なぜか?反り技はイマイチだった印象があります。若かりし頃はテキサスブロンコ・スープレックスことダブルアーム・スープレックスがフィニッシュのひとつでしたが、ロビンソンや猪木のようなブリッジは効せない、上げて落とすという投げ方でした。得てしてバックドロップもそうでした。
ドリーほどの技巧者がなぜだったんだろう?ボクとしてはそのあたりが中学時代から疑問だったのですが、そんな当時に猪木の血戦十番勝負というビデオを買って昭和45年の夏に福岡でやった猪木とドリーのNWA戦での1本目のフィニッシュ直前に放ったドリーのバックドロップを見て疑問も晴れました。すごいと思いましたね。やはり技は使う人が使いやすいやり方、使い手次第なんだろうなと、しみじみ感じた次第でした。
スタン・ハンセン
ハンセンは試合でも抱え式を使ってはいましたが、バックドロップをフィニッシュとしたのは85年7月の福岡スポーツセンターでの馬場さんとの最後のPWF選手権だけじゃなかったでしょうか?
エプロンからロープを跨いで持ち上げ、そのまま後ろ向きにドドドドーッと後ずさりしてリング中央まで行ってから落としたハンセンの馬力ならではの滞空時間の長いバックドロップでした。
ビッグバン・ベイダー
けして名手ではありませんでしたが、あの受身のうまい藤波を長期欠場に追い込んだベイダーのバックドロップ・・・画像はまさにそのときのものなんですが、これはひどい!!バックドロップじゃなくて、まるで転落事故ですね・・・
藤波はこれで怪我をしてしまいましたが、まだ腰でよかったのかもしれません。これが首にきていたらと思うと空寒いです・・・
坂口征二
これはめったに出なかったけどすごかったなぁ・・・
坂口の場合は抱え式というより手のひらで膝裏を上げる感じでした。なぜかっていうと、この体勢で持ち上げると必ずアトミック・ドロップだったからなんですよね。
でも!!稀にそのまま後ろにいったときにはドギモを抜かれたもんでした。こう何気なしに坂口の試合を見てるじゃないですか?で、あーアトミック・ドロップかな?なんて余裕かまして見てたらいきなりそのまま後ろに放り投げるんですよ!!あの坂口の長身から急転直下で繰り出されたなら、下手なヘソ投げ式よりも高角度です!!
中でも85年のIWGPタッグリーグ戦でのブロディ・スヌーカとの試合で猪木がブロディに、坂口がスヌーカに同時に放ったバックドロップの競演は驚きましたねぇ~。さすが黄金コンビてです!!
ジャイアント馬場
これはもう威力や方式がどうこうという問題じゃないんですよ。馬場さんがバックドロップをやるということに意味があるんです。
目に青葉 山ホトトギス 初鰹
ならぬ
投げる馬場 受けたるレイス ジョー樋口
王道です。
その他のバックドロップ
ジャンボ鶴田
こちらも先に紹介した鶴田がギャングを投げている関連画像ですが・・・これはどうでしょう!?なんと頭を相手の脇の下に入れず投げているんです。つまりジャーマン気味のバックドロップなんですね。
手もクラッチできたしジャーマン気味に投げることができたということは、本気でやれば鶴田はきっとギャングにジャーマン・スープレックス・ホールドを仕掛けるのも可能だったと思います。ジャンボ鶴田、まさに怪物にして天才です!!
天龍源一郎
これはニー・クラッシャーの状態で持ち上げて、そのまま後ろに落とすというバックドロップで、あのハリー・レイスがよく見せたものなんですよね。で、そのままゆっくりバックドロップ・ホールドのように倒れこんでフォールするという、レイスならではの雄大な技だったんですよ。
だから本当は天龍じゃなくて元祖のレイスの画像を載せたかったんだけど・・・どうしても見つからないのでこれにしました。
ま、わかりますように全日本ならではの技と、言っていいでしょうね(山田隆風)
アブドーラ・ザ・ブッチャー
意外と知る人が少ないアブドーラ・ザ・ブッチャーのオリジナル、山嵐バックドロップです。
ちょっとブロックバスター気味に担ぎ上げ、長い滞空時間を置き、まさに巨木が倒れるがごとく投げる。この技を普通の選手がやっても面白みに欠けてしまうと思いますが、持ち上げてからインパクトの瞬間まで、ブッチャーがやると迫力があり、技の説得力があふれんばかりで実に素晴らしいです。いいですね~。
テリー・ゴディ
若き日にコーチを受けたということで、実はテーズ直伝になるんですが・・・ゴディのバックドロップはどうなんだろう?ヘソ投げ風に持ち上げるんだけど、そのあと全体的にバラつく気がします。が、一応ご紹介しておきます。
藤波辰巳
一見何もなさそうですが・・・藤波のバックドロップ。実はこれは分類が難しいですね。
ヘソ投げとも取れないし、ひねりを加えたのでもない・・・もちろん抱え式でもない。言ってみればヘソ投げのように持ち上げるがブリッジはせず、抱え式のように落とすという感じ?かな?
なんてのかな?一見するとバックドロップというよりバックバスターという感じで、正直見た目はよくないし、効果はどうなのかな?という気持ちにもなる瞬間があります。しかし意外なことに藤波は歴史の節々にこのバックドロップでダイナマイト・キッドや長州力、エル・カネックやドス・カラスなどの有名どころからフォール勝ちを奪っているんですね。実は本来のバックドロップとはちがう、何か効果がある技だったのかもしれませんね。
さぁ必殺技を語ろう!バックドロップいかがでしたでしょうか?あなたの心にはどんなバックドロップが蘇りましたか?
次回もお楽しみに!!
過去ブログ・メモリアル~HERO(力道山メモリアル・リミックス)~
さてさて、先日TSUTAYAの会員証の更新期限が近づいてきたと更新ハガキが届いた。このハガキを持って更新しに行くとビデオ・DVDが1本無料になるのである。そんなわけでこのところめったにレンタルなんかしなくなったんだが、せっかくなのでTSUTAYAに行って更新することにした。2本借りても1本の料金というのが妙に嬉しく(まぁ庶民的ね)何借りてやっかな?と、さっそく店内を物色。
以前から気になっていたドリフの“8時だよ!全員集合”は20本以上も並んでいたがすべてレンタル中。うーん、さすがだ・・・それとならんでダウンタウンの“ごっつええ感じ”もひとつくらいしかない。うむー・・・見たいのが見事にない。その後も物色するが、結局“ダウンタウンのガキの使いやあらへんで”と映画の“力道山”をレンタルすることにした。実はこの“力道山”見たいというか気になってたんだ。
ちょっと前の話になるが、日韓合作映画で“力道山”が製作されたのがちょうど3年前くらいだった。テレビでこの映画の話を聞いたとき、ある理由からすぐ見たいなと思ったんだけどなかなか見れなくてずいぶん時間が経っちゃったな・・・
そのある理由とは・・・あれは27歳のある日、今ではつくばエキスプレスの開通ですっかり有名になってしまった終点付近の西○デパートで買い物しているときだった。
当時まだ2歳の娘を抱っこして食品売り場を歩いているときだった。奥様の会計も終わり、買ったものを袋に詰めていると、となりのエスカレーターで思いがけない人物に遭遇してしまったのだ。それは、こんなところにいるはずもないような人・・・パーマ・ヘアーにヒゲ面、当時の全日本プロレスの公認ファンクラブの人しか手に入らない“キングス・ロード”のロゴ入りのジャンバーを着て手にはポーチを持ちテクテク歩くオヤジだった。
しかし、この人はただのオヤジではなかったのだ。顔を見れば、それはなんとこの映画“力道山”でも特別協力者として名前が出てくるあの力道山の息子にして“6時半の男”百田光雄だったのだ!
長年のプロレス・ファンのサガか・・・そのときはおいらつい条件反射で
「あー!!百田選手!!」
と本人に聞こえるほどの大音量で言い放ってしまったのだ。すると
「あ!!」
と言うがはやく、百田は逃げるように去っていってしまったのだ。どうして!?と我に返れば、このときおいらは偶然にも全日本プロレスのTシャツ(小橋健太の)を着ていたのが、これが百田の心に何かを感じさせてしまったにちがいなかった(でも別に逃げなくてもいいじゃんね?)
とまぁ、そんな理由でこの映画、見たかったんだよな。って、そんな理由なのかよ本当に!?あー、まあ話を映画に戻そうね。
さてこの“力道山”韓国映画ということだがキャストは日本人の有名どころも主演しているようでその配役を見てみると・・・力道山役に韓流スターなのかな?詳しくないんでわからないんだけど韓国のソル・ギョング(このとき役作りのため体重を30キロ近く増量したんだとか)中谷美紀、藤竜也、萩原聖人、さらに武藤敬司においらの好きな船木誠勝に今は亡き橋本真也。他、実際のレスラーも多数主演しているようで・・・こりゃそうそうたるメンバーだ。見る価値は十分すぎる。
ところで幼少の頃からプロレス好きだったおいらはプロレスの話なら大人が話しているとこにも首を突っ込んだものだったが・・・逆に全くプロレスに興味も知識もない大人や学校の先生でも当時は子供相手にもプロレス話、乗ってきてくれたものである。でもそれは何も大人が子供相手だからって話を合わせてくれていたというわけではなかったんですな。
「力道山はなぁ・・・」
当時の大人たち、そうだなぁー今でいえば50~60歳代くらいかな?その年代はプロレスというと力道山だった。水戸黄門の印籠しかり、力道山の名前が出るとそこから先、大人の話には手も足も出なかったっけなぁ。でもおいらけっして力道山の知識がなかったから黙りこくったというわけではなかったんだ。だったらなぜ黙って聞いていたのかというと、あまりにも大人たちが力道山のことを懐かしそうに嬉しそうに、夢中で語るので、その世界をジャマできなかったというのが理由だったんだ。大人たちの口調は熱かった。力道山はまさにヒーローだったのだ。
「その頃はテレビがなくてな、お金持ちの家にみんなでテレビ見せてもらいにいったもんだよ、お茶菓子もって」
「自分より大きい外人をカラテ・チョップで次々倒してな、力道山凄かったんだ」
「外人がいくら反則しても自分は絶対反則しなかったんだよ」
話が始まると大人たちは遠くの空を見つめるように淡々と語り、もはや子供のおいらなどレツゴー三匹でいう長作の立場にすぎなかった。
しかしなぜこの時代、昔のプロレス話をすると大人たちが力道山に詳しく熱く語ったかというと、この大人たちが見ていた頃のテレビ番組がプロレス放送で、プロレスの話イコール力道山、そしてテレビの話イコール力道山な時代だったからなのである。
民放で最初の放送局、日本テレビが放送開始したのが1953年、同時にプロレスの放送開始も同年に開始された。当時はテレビ局もそうだが放送番組自体がそれほどたくさんなかった。つまり見る番組が限られていた感がある。が、力道山に人気が集まったのはけしてそのせいばかりではない。
当時の日本は戦争で敗戦した余韻があり、国民は外国人にどこか劣等感を持っていた。そんな戦後の日本人達が、敵国だった外国人達を空手チョップでなぎ倒す力道山を見る・・・その姿に
“戦争では外国に負けたが日本の力道山は外人より強いんだ”
という気持ちが生まれ当時の日本人の心の奥底にあった心理に火をつけた。やがて日本規模で熱狂、その勇ましい姿の力道山に勇気づけられ夢を抱き憧れた。劣等感はいつしか優越感に変わっていった。そして国民は敵国だった外国人を片っ端からやっつける強い人を見たい。強い人が戦うところが見たい。力道山がもっと見たいとなり・・・結果テレビの普及率は日の出の勢いで、テレビが売れ力道山を見るという、または力道山を見たくてテレビを買うという図式が出来上がって・・・結果その大人たちが生きてきた時代背景がテレビ放送であり、力道山であったのだ。
さてそんな力道山。大人たちがあの頃語ったヒーローとは?映画を見てみると・・・
相撲を廃業しアメリカに渡りプロレスを日本に持ち帰り、日本初の国際試合を行い、そして亡くなるまで・・・表立ったところはおいらも知っていたけど、改めていろいろ思うところがあった。戦後人々に夢と希望を与え日本のヒーローで国民的英雄。そして今にしても大山倍達、木村正彦、と共に現在の日本の格闘技の祖でもある。しかし・・・その映画はそういった、表立ったみんなの知っている力道山ではなかった。
朝鮮国籍で差別を受けたつらい日々・・・プロレスで出た人気のおかげで関係者や暴力団との間に起こる苦悩、有名になってしまったせいで陰からずっと支えてきてくれた女性との間に生じてしまった亀裂・・・手に入れた富と名誉による悲劇の数々、そして最後は・・・今まであまり表に出なかった“知られざらる”力道山の話の連続でかなりグッときてしまった。
なんでだろう・・・ブルース・リーもそうだった。アメリカに渡ったときは中国人と差別され苦労をし、人気が出て有名になり富と名誉を手に入れるとそれ目当てに多くの人が集まってきて・・・悩み苦しみ亡くなっていく・・・ヒーローの結末はなぜいつも悲劇なんだろう・・・
この映画、力道山の映画ですがすごーく胸にくるものがあって・・・途中から力道山の映画ということを忘れて見入ってしまいました。おいらは韓流映画やドラマって見たことないんですが、それってこういう感じなのかな?
とにかくまったく力道山やプロレスを知らなくてもグッとくると思います。
現在ではプロレスも暴露本の数々の出版でいろいろなことが暴かれ書かれている。力道山も例外ではない。いいこと、わるいこといろいろ書かれているが・・・おいらはヒーローとして讃えたいな。
映画“力道山”お時間あったらゼヒご覧ください。
力道山メモリアル
少年時代の力道山
1954年2月、木村政彦と組みシャープ兄弟と日本初のプロレス国際試合を行う。
なんとNHKと日本テレビが同時中継。東京・新橋駅に設置された街頭テレビにはなんと22万人が集まった。当時の時代背景から見て外人と戦う、というのが最大の見所だったと思うけど、やっぱり対戦相手が“兄弟”というのがよかったと思うなぁ。
同じく54年の12月、木村政彦と対戦した有名な“昭和の巌流島”決闘。
当時から現在まで諸説いろいろあるこの試合だが・・・とにかく壮絶な試合とし、今なお語り継がれる名勝負であります。
1957年に来日したNWA世界チャンピオンの鉄人ルー・テーズとの世界戦。
10月7日の後楽園球場、同じく13日の大阪扇町プールと二度対戦しどちらも引き分けた。観客は東京・大阪合わせて5万7千人、初戦の視聴率はなんと87%という驚異的な数値であった。画像はバックドロップを河津掛けで防ぐ名シーン。このセンスが力道山のなんたるかですね。
1962年4月、吸血鬼フレッド・ブラッシーを破りWWA世界チャンピオンに。
ボクの親ぐらいの人やそれより年上の人とプロレスの話をすると、一番名前が出てくるのがこのブラッシーだ。やはり噛みつき攻撃は相当なインパクトだったんだろうなぁ。
64年、WWA世界選手権、白覆面の魔王ザ・デストロイヤーと対戦。
4の字固めをめぐる攻防に日本中が大興奮した。しかしこれが力道山最後の試合となる。
力道山が今いたら・・・日本のプロレスはどうなっていたのかな・・・興味は尽きませんね。