過去ブログ・メモリアル~HERO(力道山メモリアル・リミックス)~ | 団塊Jrのプロレスファン列伝

過去ブログ・メモリアル~HERO(力道山メモリアル・リミックス)~



さてさて、先日TSUTAYAの会員証の更新期限が近づいてきたと更新ハガキが届いた。このハガキを持って更新しに行くとビデオ・DVDが1本無料になるのである。そんなわけでこのところめったにレンタルなんかしなくなったんだが、せっかくなのでTSUTAYAに行って更新することにした。2本借りても1本の料金というのが妙に嬉しく(まぁ庶民的ね)何借りてやっかな?と、さっそく店内を物色。


以前から気になっていたドリフの“8時だよ!全員集合”は20本以上も並んでいたがすべてレンタル中。うーん、さすがだ・・・それとならんでダウンタウンの“ごっつええ感じ”もひとつくらいしかない。うむー・・・見たいのが見事にない。その後も物色するが、結局“ダウンタウンのガキの使いやあらへんで”と映画の“力道山”をレンタルすることにした。実はこの“力道山”見たいというか気になってたんだ。


ちょっと前の話になるが、日韓合作映画で“力道山”が製作されたのがちょうど3年前くらいだった。テレビでこの映画の話を聞いたとき、ある理由からすぐ見たいなと思ったんだけどなかなか見れなくてずいぶん時間が経っちゃったな・・・

そのある理由とは・・・あれは27歳のある日、今ではつくばエキスプレスの開通ですっかり有名になってしまった終点付近の西○デパートで買い物しているときだった。


当時まだ2歳の娘を抱っこして食品売り場を歩いているときだった。奥様の会計も終わり、買ったものを袋に詰めていると、となりのエスカレーターで思いがけない人物に遭遇してしまったのだ。それは、こんなところにいるはずもないような人・・・パーマ・ヘアーにヒゲ面、当時の全日本プロレスの公認ファンクラブの人しか手に入らない“キングス・ロード”のロゴ入りのジャンバーを着て手にはポーチを持ちテクテク歩くオヤジだった。


しかし、この人はただのオヤジではなかったのだ。顔を見れば、それはなんとこの映画“力道山”でも特別協力者として名前が出てくるあの力道山の息子にして“6時半の男”百田光雄だったのだ!


長年のプロレス・ファンのサガか・・・そのときはおいらつい条件反射で


「あー!!百田選手!!」


と本人に聞こえるほどの大音量で言い放ってしまったのだ。すると


「あ!!」


と言うがはやく、百田は逃げるように去っていってしまったのだ。どうして!?と我に返れば、このときおいらは偶然にも全日本プロレスのTシャツ(小橋健太の)を着ていたのが、これが百田の心に何かを感じさせてしまったにちがいなかった(でも別に逃げなくてもいいじゃんね?)


とまぁ、そんな理由でこの映画、見たかったんだよな。って、そんな理由なのかよ本当に!?あー、まあ話を映画に戻そうね。


さてこの“力道山”韓国映画ということだがキャストは日本人の有名どころも主演しているようでその配役を見てみると・・・力道山役に韓流スターなのかな?詳しくないんでわからないんだけど韓国のソル・ギョング(このとき役作りのため体重を30キロ近く増量したんだとか)中谷美紀、藤竜也、萩原聖人、さらに武藤敬司においらの好きな船木誠勝に今は亡き橋本真也。他、実際のレスラーも多数主演しているようで・・・こりゃそうそうたるメンバーだ。見る価値は十分すぎる。


ところで幼少の頃からプロレス好きだったおいらはプロレスの話なら大人が話しているとこにも首を突っ込んだものだったが・・・逆に全くプロレスに興味も知識もない大人や学校の先生でも当時は子供相手にもプロレス話、乗ってきてくれたものである。でもそれは何も大人が子供相手だからって話を合わせてくれていたというわけではなかったんですな。


「力道山はなぁ・・・」


当時の大人たち、そうだなぁー今でいえば50~60歳代くらいかな?その年代はプロレスというと力道山だった。水戸黄門の印籠しかり、力道山の名前が出るとそこから先、大人の話には手も足も出なかったっけなぁ。でもおいらけっして力道山の知識がなかったから黙りこくったというわけではなかったんだ。だったらなぜ黙って聞いていたのかというと、あまりにも大人たちが力道山のことを懐かしそうに嬉しそうに、夢中で語るので、その世界をジャマできなかったというのが理由だったんだ。大人たちの口調は熱かった。力道山はまさにヒーローだったのだ。


「その頃はテレビがなくてな、お金持ちの家にみんなでテレビ見せてもらいにいったもんだよ、お茶菓子もって」


「自分より大きい外人をカラテ・チョップで次々倒してな、力道山凄かったんだ」


「外人がいくら反則しても自分は絶対反則しなかったんだよ」


話が始まると大人たちは遠くの空を見つめるように淡々と語り、もはや子供のおいらなどレツゴー三匹でいう長作の立場にすぎなかった。


しかしなぜこの時代、昔のプロレス話をすると大人たちが力道山に詳しく熱く語ったかというと、この大人たちが見ていた頃のテレビ番組がプロレス放送で、プロレスの話イコール力道山、そしてテレビの話イコール力道山な時代だったからなのである。


民放で最初の放送局、日本テレビが放送開始したのが1953年、同時にプロレスの放送開始も同年に開始された。当時はテレビ局もそうだが放送番組自体がそれほどたくさんなかった。つまり見る番組が限られていた感がある。が、力道山に人気が集まったのはけしてそのせいばかりではない。


当時の日本は戦争で敗戦した余韻があり、国民は外国人にどこか劣等感を持っていた。そんな戦後の日本人達が、敵国だった外国人達を空手チョップでなぎ倒す力道山を見る・・・その姿に


“戦争では外国に負けたが日本の力道山は外人より強いんだ”


という気持ちが生まれ当時の日本人の心の奥底にあった心理に火をつけた。やがて日本規模で熱狂、その勇ましい姿の力道山に勇気づけられ夢を抱き憧れた。劣等感はいつしか優越感に変わっていった。そして国民は敵国だった外国人を片っ端からやっつける強い人を見たい。強い人が戦うところが見たい。力道山がもっと見たいとなり・・・結果テレビの普及率は日の出の勢いで、テレビが売れ力道山を見るという、または力道山を見たくてテレビを買うという図式が出来上がって・・・結果その大人たちが生きてきた時代背景がテレビ放送であり、力道山であったのだ。


さてそんな力道山。大人たちがあの頃語ったヒーローとは?映画を見てみると・・・


相撲を廃業しアメリカに渡りプロレスを日本に持ち帰り、日本初の国際試合を行い、そして亡くなるまで・・・表立ったところはおいらも知っていたけど、改めていろいろ思うところがあった。戦後人々に夢と希望を与え日本のヒーローで国民的英雄。そして今にしても大山倍達、木村正彦、と共に現在の日本の格闘技の祖でもある。しかし・・・その映画はそういった、表立ったみんなの知っている力道山ではなかった。


朝鮮国籍で差別を受けたつらい日々・・・プロレスで出た人気のおかげで関係者や暴力団との間に起こる苦悩、有名になってしまったせいで陰からずっと支えてきてくれた女性との間に生じてしまった亀裂・・・手に入れた富と名誉による悲劇の数々、そして最後は・・・今まであまり表に出なかった“知られざらる”力道山の話の連続でかなりグッときてしまった。


なんでだろう・・・ブルース・リーもそうだった。アメリカに渡ったときは中国人と差別され苦労をし、人気が出て有名になり富と名誉を手に入れるとそれ目当てに多くの人が集まってきて・・・悩み苦しみ亡くなっていく・・・ヒーローの結末はなぜいつも悲劇なんだろう・・・


この映画、力道山の映画ですがすごーく胸にくるものがあって・・・途中から力道山の映画ということを忘れて見入ってしまいました。おいらは韓流映画やドラマって見たことないんですが、それってこういう感じなのかな?


とにかくまったく力道山やプロレスを知らなくてもグッとくると思います。


現在ではプロレスも暴露本の数々の出版でいろいろなことが暴かれ書かれている。力道山も例外ではない。いいこと、わるいこといろいろ書かれているが・・・おいらはヒーローとして讃えたいな。


映画“力道山”お時間あったらゼヒご覧ください。



力道山メモリアル


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少年時代の力道山


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1954年2月、木村政彦と組みシャープ兄弟と日本初のプロレス国際試合を行う。


なんとNHKと日本テレビが同時中継。東京・新橋駅に設置された街頭テレビにはなんと22万人が集まった。当時の時代背景から見て外人と戦う、というのが最大の見所だったと思うけど、やっぱり対戦相手が“兄弟”というのがよかったと思うなぁ。


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同じく54年の12月、木村政彦と対戦した有名な“昭和の巌流島”決闘。


当時から現在まで諸説いろいろあるこの試合だが・・・とにかく壮絶な試合とし、今なお語り継がれる名勝負であります。


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1957年に来日したNWA世界チャンピオンの鉄人ルー・テーズとの世界戦。


10月7日の後楽園球場、同じく13日の大阪扇町プールと二度対戦しどちらも引き分けた。観客は東京・大阪合わせて5万7千人、初戦の視聴率はなんと87%という驚異的な数値であった。画像はバックドロップを河津掛けで防ぐ名シーン。このセンスが力道山のなんたるかですね。


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1962年4月、吸血鬼フレッド・ブラッシーを破りWWA世界チャンピオンに。


ボクの親ぐらいの人やそれより年上の人とプロレスの話をすると、一番名前が出てくるのがこのブラッシーだ。やはり噛みつき攻撃は相当なインパクトだったんだろうなぁ。


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64年、WWA世界選手権、白覆面の魔王ザ・デストロイヤーと対戦。


4の字固めをめぐる攻防に日本中が大興奮した。しかしこれが力道山最後の試合となる。


力道山が今いたら・・・日本のプロレスはどうなっていたのかな・・・興味は尽きませんね。