3/2 おはクラ放送後の呟き | マーシー山本教授のゆるゆるクラシック日記

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追悼 小澤征爾
今回は小澤さんとNHK交響楽団との騒動についてお話しします。

1962年にニューヨークフィルでバーンスタインのアシスタントコンダクターを務めていた小澤さんは、日本に戻りNHK交響楽団の指揮者になります。

そして、その年の「第九」の演奏会を、NHK交響楽団のメンバーがボイコットするという事件がありました。
どうしてN響メンバーはボイコットする事になったのでしょうか?

その真相をお話しします。


この時、小澤さんはまだ27歳。

NHK交響楽団の団員の平均年齢より大分年下でした。

それに楽員の出身大学は東京藝術大学出身が多かったのです。

 

小澤さんの出身の桐朋音楽大学はまだ歴史が浅い上、桐朋の出身音楽家は少なかった頃です。

小澤さんはそんな楽員から下に見られていたのは否めません。

 

練習や海外遠征の時、小澤さんが遅刻やちょっとしたミスをすることが重なり、メンバーとの間に不穏な空気が流れていました。

そしてある定期演奏会の批評が新聞で酷評される事があり、それを機会に楽員から不満の広がりをみせます。

マスコミも、海外のコンクールで賞をとり天狗になっていると書き立てたのです。

 

これらの事から浅利慶太(演出家)、石原慎太郎(作家)などの同世代の芸術家が、小澤さんを救うために運動を起こし裁判をおこしたことで、事態の収拾がつかなくなります。

 

そんな中、小澤さんはデトロイト交響楽団の客演のためアメリカへ渡り指揮をして戻ってきてNHK交響楽団を指揮する予定でした。

しかしNHK交響楽団は、病気を装いアメリカに留まり契約を更新しない提案を小澤さんにしますが、小澤さんは断ります。

そして、あの有名なボイコット事件がおこるのです。

その裏にはN響の事務局側が楽団員に対して定期演奏会に出てもらえれば、「第九」の演奏会は小澤さんに指揮をさせないという話を持ち掛けます。

 

それを知った浅利たちは、小澤さんに挑発的な生意気な態度をとるようにけしかけ、N響側に次の要求をしました。
①曲目の変更②楽団員が協力する保障③NHKが遺憾の意を表明するの3つです。

 

NHKの理事側はそんな小澤さんとの契約をしない事を決めます。

そして、定期演奏会と第九の演奏会の中止を決定し伝えました。

NHK交響楽団史上初めての「定期演奏会中止」です。


しかし、小澤さんは定期演奏会会場の東京文化会館へ向かい、誰もいないステージにたちました。

そこには、演奏者の座る椅子と譜面台が並び、指揮台もありました。

楽団員さえ来てくれれば、いつでも始められる状態でした。

 

そんなステージに、小澤はひとりで指揮台に座り、リハーサル出来るのを待っていました。

その様子を取材に来た報道陣に撮られ、新聞には「天才は一人ぼっち」「指揮台にポツン」などの見出しでスキャンダラスに報じられました。

 

その裏には、石原慎太郎と浅利慶太が「誰もいないステージ」の場面で、小澤に「孤独な天才」を演じさせ、カメラマンを呼んで撮らせた演出でした。


その報道で世間は一気に小澤さんに同情的になりました。

これを機に、石原慎太郎、浅利慶太のほかに三島由紀夫、谷川俊太郎、大江健三郎、團伊玖磨、黛敏郎、武満徹といった当時の若手芸術家と文化人たちが「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、N響とNHKに対して質問状を出すなど、社会問題となっていきます。


その後、小澤さんは、吉田秀和(音楽評論家)黛敏郎(作曲家)らの仲介で、NHKと和解をして訴訟を取り下げます。

そして小澤さんは羽田空港からアメリカへ向かい「世界のオザワ」と呼ばれ、大活躍をしたのは皆さんの周知の通りです。

 

もしこの時、小澤さんがN響に謝罪して復帰していたら、「世界オザワ」は存在しなかったと思います。

 

今回の動画

https://youtu.be/Im5R5W3zUS4