お天道様に顔見せできない事はしない | やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

わが身かわいい、と心は叫ぶ・・・それをずっと思ってきた。

学生時代にまた立ち返る。(誰に読んでもらい為でもないことだ。)

学内でアジテーションする。ビラを配る。核兵器の廃絶や安保反対など政治的メッセージや学費値上げ反対や教学条件改善を求めることを主とした集会を開く。それらに何ら反応しないのが大多数の学生の姿だった。

こんな連中に関わるとろくなことはない。(確かにそうだった)そんな意識が優位に来て我々に一般学生はほとんど反応してくれなかった。

自分のことで忙しくて、それに訴える側に魅力もなくて・・・。心は混沌としていた。どうにでもなれ、と思いながら暴れていた。

40年以上経った今も同じようなことを思う。

自分のことが忙しくて世の中の事や公共の事、環境の事、汚職の事、およそ政治にかかわる様々なことを他人に任せて自分は蚊帳の外で何ら傷つくこともなく「オオタニサン」たらの話題に夢中になる。そんな人が多くなり世の中どんどん悪くなっているようでなんかむかむかする。自分もそうだ。最近何も世の中のために行動していない。アホだと思う。

 

けど、世の中の多くの人は自分が「善」だと思っているし、優しくて親切な人間だと自己評価していやしまいか。それが一番困る。

自分の中に邪悪なものの存在を認めずに「自分ほどいい奴はいない」と言葉に出さなくても自意識過剰になってうぬぼれている奴がぼくの周りにも散見できる。そういう奴の勘違いが一番怖い。

他者の評価が最低ランクなのに自己評価が高い人ってもうどうしようもない。治らない。

人間には誰しも善と邪悪が共存している。善だけで邪悪がない人などいないけど、それを自覚できない人が多すぎる。

障がい者、とくにもの言えぬ、表現できない人に関わる時って、何をしても見られてなければ罰せられることはない。その状況下に置かれたら、人は誰でも、どんなに善人であろうと「邪悪」が顔を出すものだ。腹立ってきたら殴るかもしれないし、悪罵を投げつける可能性だって大いにある。誰も見ていない、罰せられる可能性がゼロの状況下だから・・・。「そんなものは自分の中には存在しない」と言い張る人がいるなら、そういう人を今日から信じないほうがいい。邪悪は自分の意思を離れてひょいと散文的に顔を出す。その突然現れた「邪悪」を凌駕する「善」な心を持ち合わせていないと人は容易に悪人になる。罰せられなくても魂が腐ってくる。落ちているお金をポケットに入れてしまうか交番に届けるか心の中で葛藤をする。その時、善と邪悪が拮抗するのが人間の普通だ。51対49で善が勝てばいいが時に邪悪が勝ってしまう事って間違いなくあるんだ。そういう弱さを認めた上でのこの仕事。

理不尽としか言えない乱暴な目に遭うこともよくある。殴り返せるものならそうしたい、と「邪悪」が叫ぶ。けど、そんなことすると魂が薄汚れていくのははっきりしている。

我々を邪悪から救ってくれるのは「お天道さまに恥ずかしいことはお見せできない」という健全な魂ではないのか、と思う。

我々の仕事は邪悪の池の上を一本のロープで綱渡りしている姿と同じだ。

気を緩めると犯罪者になる。