成人式の頃 | やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

あの頃のぼくは先鋭的な目をして世の中を睨みつけていた。

わが身を取り巻く不条理を嘆いていた。もっとカッコいい外見で生まれたかった。さもなければ生まれて来なければよかった、とも思った。

異性にモテたかった。それにはこの外見では無理だと思った。この一物では無理だと思った。ええい、ままよ、と何か知らんが暴れたかった。中学生や高校生あたりで迎える第二次反抗期がなかった僕は大学で遅咲きの反抗期がやってきた。

合法的に暴れてやる。明日など知ったことか、と「大人たち」に歯向かって行った。

「大学当局」と我々が呼んでいた大学の経営陣にも今では想像もつかないほど反抗的な言動で挑発した。その中に伊藤唯心学生部長もいた。今や浄土宗のトップに上り詰めた人になっている。そんなこと知らんがな。「伊藤」と呼び捨てていた。

ハンドマイクのスピーカー部分を地面に置いて、ほぼ毎日正門前で「佛教大学に学ばれるすべての学友の皆さん、おはようございます。こちらは学友会中央執行委員会です」から始まる僕の朝のアジテーションは学費値上げ反対や学生総会の告知、スト権確立の投票呼びかけ、安保廃棄、ライシャワー発言などその時々の時事ネタも多数ちりばめた。人前でしゃべる度胸はその時に培われた。

20歳の頃は年間200日間ぐらいはやっていた。

普通の学生の域をとうに踏み外していた。まともな大人にはなれないだろうな、と漠然と不安もあった。卒業も危ういよなあ、と中退という事も考えていた頃だった。なんせ、大学には行っても講義にはほぼ出なかった。

まともな就職も、ましてや結婚もできないだろうなあ、と漠然と思いながら、その不安を振り切るように活動に精を出していた。

一緒に活動していた奴が一般企業に就職したと聞くと「こいつら上手に世の中渡りやがって」と恨んだ。自分だけ取り残されたような気がした。

20歳の頃、ぼくは非情に危険は状態で毎日過ごしていた。

のほほんと過ごしているような学生に敵意すら感じていた。

 

今、63歳になろうとするぼくは当時のぼくを振り返る・・・最悪の若造だった。今のぼくが一番嫌悪する若造だった。

許してほしい、としか言いようがない。